㊇  〇に八の字

旧大洋ホエールズ→横浜ベイスターズの親会社だった旧大洋漁業の「マルハ印」は航海中に「荒波(は)を丸く収める」という意味が含まれていたそうですが、そもそもの発祥は「林兼」の「は」ですから上記画像の㊇印とは大元が違います。

 

 脱線しますが昨日の小和田先生のブログのテーマが「村上水軍の城 岡山笠岡城」でした。

私は岡山には横浜出身で沖縄で知り合って懇意にしていただいた「大ちゃん夫婦」がおりますが、~たしか岡山空港で飛行機の誘導員をしていると聞きます~私、中国地方は今だ未踏の地で、引退でもしなくてはそちらの城たちにお邪魔できる時間はなかなかとれませんね。

そういう意味で小和田先生のブログを眺めて、西のまったく未知の城の情報を得られるということは価値があります。

 

そのブログ、水軍ということで俄かに上記画像を思い出した次第です。

かつて寧波の乱の紹介でも触れたことがありました通り彼らは戦国時代になってから「水軍」などと体のいい名でまとめられはしましたが、どちらかといえばその出自「海賊」と呼ばれるべき集団からの発祥だと思います。

 

 沿岸域の単独個人プレーであった海賊行為が船団を組んで力を付けて行き、国内では飽き足らず、朝鮮半島やら中国大陸、フィリピンまで足を伸ばしたのが「倭寇」であったのです。

日本は島国であり特に西南域、瀬戸内地域には色々な海賊集団が居たことは推測されます。

 

 当ブログでは海賊船には「八幡大菩薩」の幡(旗)が掲げられたことから倭寇船を八幡船(ばはせん ばはんせん)等他に〈八番〉などと呼ばれたことを記しました。

そもそも「八幡大菩薩」はいつしか武士の武運にかかわる武神「弓矢八幡」として崇敬されて、特に「ここ進軍して敵を打ち負かす」という意志表示、自軍鼓舞として掲げられました。

武将の戦勝祈願等、一つ気合いを入れる時、陣を設ける時など好んで「〇〇八幡」にてと、その名を示すことはいわば縁起担ぎにも似た慣例でもあったのです。

 

先日来伊勢九鬼水軍九鬼嘉隆について紹介しておりますが

答志島についてのNHK製作のドラマを視て本当に一昔前の日本(より独特・・)にタイムワープしたかの如くの風習が残っていることに驚かされました。

その番組内でも触れられていましたが、大抵の漁港近くの家々には殆ど子供の落書き?程度と思えてしまうような丸に八の字(㊇)が玄関脇に記されていました。

「魔除けの八幡さま」とのことです。