儲かるなら何でもやる 寧波の乱

大内家と細川家は応仁の乱以降もライバル関係が続きます。

細川勝元の子の政元は細川家の全盛期を迎えますが修験道の修行に懲りすぎて実子を作らなかったためにやたらと後継者候補の養子をとりまくり、いらぬ権利継承権の争いを惹起させて「永正の錯乱」にて家臣に暗殺されてしまいます。

 

 一方、大内政弘の孫、義隆とその子義尊は「大寧寺の変」で周防国守護代の陶晴賢に殺されて大内家そのものの滅亡となりました。

 

応仁の乱を通して乱世においても実力を発揮し両家とも我が世の春を謳歌してきた家ではありますが典型的な戦国下剋上のプロローグを演出してしまいました。

 

さて、双方の国民のプチナショナリズムに火をつけて、かつてからのいざこざを一気に盛り上げて、莫大な経済損失を惹起させてから、首相の座を最期のチャンスとばかりに狙っているのか、知事の職務を2年で放り投げたあの人が昨今のニュース番組を占有しています。

  

 室町時代の日中両国については足利将軍家の幕府将軍が「日本国王」として、明の国王への朝貢形態でした。

ファッショっぽい思想でもって差別大好き、好戦的なあの人はそういう事実は無かったことにしたいでしょうね。

 

所謂、属国の倭の国王が貢物を持って挨拶をするという形での貿易承認、許可です。

承認国の明国は期限付き、発行数限定の「勘合符」を発してそのお墨付きのある船舶以外の明への入港を禁じたものです。

これは倭寇(わこう)という日本人の海賊や私的交易と区別するための策だったようですが、煩わしい許可形態にもかかわらず奮ってその貿易に参加、あわよくば独占しようとしたのが上記、大内家と細川家だったのです。

試算によれば(NHKの遡り日本史)利幅は莫大で輸出品に対する輸入品の価額は2.5倍だったとのこと。

投資金額が2.5倍という利回りはそうはありませんね。

 

その利益の取り合いは室町期に台頭してきた「商人」たちの意向があったそうです。

まるで現代の経団連やら同友会やら経済界のお偉いさんたちに尻尾を振り振りする政治屋さんたちを彷彿とさせますね。

その点、経済利潤を無視して、「我」というかイデオロギー振り回してのやりたい放題の食い散らかし、あの政治屋さんと経済利潤オンリーで国民不在の経団連との双方、いわゆる自称「暴走老人」の罵りあいは、また三文喜劇を見るが如くでもあります。 

 

 室町後期のそれは「大内家の博多商人」と「細川家の堺商人」で、殆どそれら商人たちの代理戦争が両家の立場だったともいいます。政治が経済の「代理」になっていった変革期です。 

先日、中国の寧波(にんぽう)でデモがありましたが1523年に起こった「寧波の乱」などはかなり無茶苦茶ですよ。

 

 大内家の船が正規の勘合符を持参して寧波に向かえばそれを追いかけて細川の船が偽(期限切れ)の勘合符で寧波に入港、賄賂を使って先に許可を得た細川の船に激怒して大内側は細川の船のみならず寧波の港を焼き払って双方暴れまわったという話です。日本の二大勢力が中国で喧嘩になって大騒ぎ。かなり無茶ですよね。

「利益のために競うように相手先に行って客先で大喧嘩に及びその店先を暴れまわって火をつける」そんなことが平気で繰り広げられた時代の我らの御先祖様でした。

 

 一方的な被害を被った明国は当然日本との取引を停止しますが倭寇の活動を日本側に抑えてもらうということと、その区別をしたいがために日明貿易(勘合貿易)は再開されます。

昔からカネに目が眩んでは常軌を逸したことをやらかして来た国民でした。日本国民は。

しかし倭寇のグループも多国籍化していましたのでこの辺の民間レベルでは「利害一致」ということもありましょうが協力して事にあたるという協調性も芽生えた頃でもあります。

 さて倭寇の「倭」とは現代では中国から見た日本人に対する差別用語に近く、野蛮人を意味しますね。

「わ」は「倭」(チビで体の曲がった)→「和」への変異。

すると「倭洋中」ですか・・・?

昔から中国では「中国人が文化人、日本人が野蛮人」という思想があったわけです。

現代中国でもそのような史観を持っている人は当然に多いはずですので、「どっちがエライ」という比較論も双方起こって、幼稚園児並みの陣取り合戦というバカバカしさを世界に露呈させているという構図が例のアレですね。

 

 また私はこの頃の倭寇―日本版「パイレーツオブカリビアン」のバイタリティに敬意を表します。大昔のことですからね。

まともな海図も羅針盤、方位磁石も無い帆かけ船で太平洋に乗り出し、遠くはインドネシア、フィリピンの海域まで荒らしまわったといいますから。

倭寇を題材に破茶滅茶な映画でも作ったら案外当たるかも?

日本人が太平洋で暴れまわるストーリーとなれば、やはり昭和期の「倭寇」(太平洋戦争 十五年戦争)を呼び起こさせて周辺国が怒るかもしれませんね。 

 

画像は倭寇の略奪風景。

倭寇の船団は「八幡大菩薩」の旗印を掲げて進軍しましたのでその「八幡」の字から倭寇の船を八幡船(ばはせん ばはんせん)等他に〈八番〉〈奪販〉〈破帆〉〈破幡〉などという字をあてられて呼ばれたそうです。

 

②画像は関ヶ原石田三成陣、笹尾山の麓の最前線、島左近の陣旗。「八幡大菩薩」の旗です。

③は笹尾山三成陣から見た松尾山、金吾―小早川秀秋の布陣で彼の裏切りが三成の敗走に繋がりました。

 

 

★大内義隆辞世

「討つ者も 討たるる者も 諸ともに 

           如露亦如電 応作如是観」

             にょろやくにょでん おうさにょぜかん