御差支え無し ご注文無し

「無い頭を絞って一所する」と表してから次に標記の言葉を語呂よくつないで当山寺門に掲げています。

当流第一の「行」というものがあると仮定すれば、聞法と口伝(称名)ですね。

 

 以前、親鸞聖人の「聖」について記させていただきましたが「聖」を分解すれば「耳」と「口」と<とらわれない>という意の「壬」です。

そのような聖人の生き方の通りを真似て「あるべき」ことが真宗僧侶の姿と、またその2つのうち「口」よりも「耳」のウエィトを高めにするというスタンスでいなくてはなりません。

 

 これはなかなか難しいテーマであり、実際はどうしてもうまくいきませんね。

しかしまた真宗の重要命題であることは確かで、ペラペラとおしゃべり上手の悦に陥りがちな~決して私の話術が上手で得意というのではありません~坊さんの態度を戒める意味で「相手(仏)の話を聞く」「聞く耳を持つ」そして何より「お前さんの薄っぺらな経験則から何やらを話すのではなくしっかり相手のお話を心に深く聞き入れなさい」ということなのだと思います。

 

 そのことがたとえ新興宗教の勧誘員が自坊に訪れたとしても時間が許す限り「お茶でも出して」「お話を聞きなさい」という本山系からのお達しになっているのでしょう。

 

さて、そういうことから「他人様にはお話できない」という一歩踏み込んだプライバシーに関する(坊さんには守秘義務が発生します)相談も時としてあります。

当たり障り無く少しばかり触れさせていただけば、内容としては「財産、相続、看取り」についてでしょうか。

 

相続は勿論、貯蓄や不動産など資産以外の負債、墓地、御内佛も含めてですが、3つ目の看取り介護を含めて相互に複雑に絡んでいます。

「老後」というものは思わぬ金銭の支出が発生し、また、歩行をも立ち行かなくなって病重篤の身ともなれば、子供たち含めそれぞれの生活に大きなネガティブ要因として立ち塞がります。本当に簡単に「長生きしたい」と思ったり幼い子供が「いつまでも長生きしてください」と御祖父さん御祖母さんに投げかける言葉が、以前は微笑ましく聴こえたものですが昨今は何か空しくも感じてしまいます。

 

「財産、相続、看取り」についての争い等は子供など複数の相続者が居る場合に多々発生しますが、そういった子供等の相続者の居ないご夫婦やお一人暮らしの年配者の場合、特に不安なことと思います。

 

  ブログ(老いて死するは)でも記した通り我が国には社会保障制度があります。

ここではそれを悪用して国から金銭を掠め取ろうとする道義から外れた者たちの存在については「棚の上」に置いておきまして(だいたい盗られている事実、国のそのシステムの欠陥は重大責任)、にっちもさっちも行かなくなってしまったら遠慮なく社会保障申請をすべきですね。

 

ところがこの申請、これまたシステム不備なのでしょうがなかなか審査が厳しいようです。

特に気になるのは財産。「車」を持っているとNGだそうです。そして持家にローンの残。かつて借金して購入した残金の支払いがあればこれもNG。

では売却すればいいと簡単にお思いでしょうが、不動産は昔の様に売るに売れませんね。今時車と言う「足」をも奪われてしまうのは切ないですね。

 

特にここ相良等の不動産、いや静岡沿岸部みな同様でしょうが、あれ(3.11)以来殆ど動かなくなってしまいました。

売りたくても売れず相続しても固定資産税で「ひーひー」なんて話はまたぞろです。

不動産価値が殆ど無くなっているのに税金だけは昔と変わらないというのには家庭の財政も心も疲弊させられます。

 

画像は「晴海台」という相良でも一等地?から見た駿河湾。

この道路下の斜面はバブル時代に図面だけを見て当時の投資家がババ抜き合戦を演じた地所です。

ずっとあの看板が立ったままになっています。

急斜面の崖のため相当の地盤改良と鉄骨等での「舞台造り」にしなくては家は建てられませんので現場を見てしまえば買い手としても手を引くことでしょう。

しかし崖の崩落のリスクがある代わり景色は絶妙ですね。

 

直下は須々木地区ですがご門徒の酒井氏が市を巻き込んで動かし、所有者を探して許可を得てから、下の道路からこの上に登れる避難路を作った事は既報でした。