自分のことはわからない  大根屋 節談説教 

「我が身のことでありながら、我が身の事を一番知らないのは

自分ではなかろうか」という私たちにとっての重大テーマともいえる一節は、節談説教「大根屋」の冒頭、導入部分からです。

 

節談説教とはわが浄土真宗系の法話の形態で、現在の落語や講談など「話芸」の大元となったと云われています。

仏典に節をつけて庶民的で判りやすいストーリーに談じ、時として娯楽的要素も盛り込まれました。

どなたかの大元のストーリーに自分だけの枝葉を付けるなどして各説教者オリジナルの「話」を展開していきます。

 

 愛知県の故「祖父江省念」師の説教が著名でたくさんの法話がDVD等で現存(ネット上にも多く紹介されていますよ)していますが、また多くの布教師も現役でその「節談」形式の「座」を設けて各地を回っています。催されている「説教大会」など万座になっていますね。

先般お亡くなりになった俳優の小沢昭一さんが司会となるなどそれらをまとめた節談説教集を出していましたが私もかつてそのテープを拝聴しています。

 

数ある説教の中で私の好きな説教は「大根屋」です。

少しばかりアレンジしてありますが、いずれやってみたいお話です。

 

画像は「恐い国道150号線」(対歩行者の事故が絶えません)片浜地区の図。

大根の無人販売店、150号線からの富士山、大根畑。

大根畑のバックは滝境城の外郭。

しかし丹精込めたダイコンがこんな価格で売らなければならないのは辛いかも知れません。おかげさまでおいしい大根が食卓に並びますが。

 

 

節談説教「大根屋」

我が身のことでありながら、我が身の事を一番知らないのは

自分ではなかろうか。

         

今から昔、東京を江戸と呼ぶ時代に大根を売って歩く行商人の話 。       

大根屋はお金に困って長男の病気の薬代にも事欠く始末、数年前に長男を病で亡くしたばかりだった。 

商売は何につけてもそううまくいくものは無し、大根も簡単に売り捌けるものではないね。

         

今日も「だいこーん、だいこーん」と大根を荷車にどっさりと詰め込んで町外れを台車に引いて歩いていた。 

         

「だいこーん、だいこーん・・・」

「あー今日もさっぱりじゃ、どうしたもんかのぉ。 

 このままじゃ今晩の食事もありつけるかどうか    

 今日もまた大根の葉っぱのごはんか、

               いやはや・・・」       

 

家には妻と子供が待っている。

「ひもじいな・・・」 

おてんとうさまも傾いて一日も終わろうとしている。        

         

「だいこーん だいこーん」

段々とその声に焦りが出てくる。  

         

空かしたお腹をこらえて「だいこーん、だいこーん」としばらく道を進むと、小綺麗で裕福そうなお屋敷の前を通りかかった。

これはこれは、どんなもんかのぉと思っていると・・・         

中から 

「おい!大根屋」と声があがった。 

         

「こりゃ うれしや」

と喜びいさんで門をくぐって行くと・・・

         

その屋敷の品の良さそうな主人らしき男が顔を出していた。 

「その大根は一ついくらじゃ?

     

大根屋 「へい、一つ十五文で商いさせていただいております」

主人    「ほうっ 十文にまからんか?

         

「さて これはどうしたものか・・・」 

大根屋は即答できない。

十文で仕入れた大根、十文で売ったら儲けが無い

         

大根屋 「何とか十五文で買うてもらうわけにはいきません

 か?

主人    「十文でなけりゃ、こりゃ いらんな!」というと戸

 をピシャッと閉めてしまった。

         

大根屋は落胆して「はぁーこりゃ だめだ」、

首をうなだれて 屋敷の門を出ようとすると 門の手前、井戸の脇に両手で持つほどの銅製の金たらいに目がとまった。  

「うちにはあんなものが無いな」  

「裕福そうなお屋敷だし、ガッカリもさせられた」と、

悪いこととは知りながら、心苦しいとは想いながらも  

「さっと」その金たらいを持って荷台の大根の下に隠した。    

 

そそくさと   

「さあーて先を急ぐか」と車の引き手に手をかけた

その瞬間、         

「おい大根屋!」と主人の声。        

「ひぇっ!」と驚いて凍り付く大根屋。

大根屋「へい、何でございましょう」         

         

主人「その大根十五文で買うてやるぞ」         

 

早くその場を去りたや大根屋

「二つや三つでは売れぬものでございます」と切り返す。   

         

主人「ほう、では好きなだけ買うてやろう 言うてみろ」

 というと・・・         

大根屋はしばらく、もぞもぞ。

仕方が無い、大根の下にはたらいが隠してあるから大根を売るに売れない。

早くこの場を立ち去りたいのが一心。       

         

大根屋「はっ・・いや 思い出しました 先に約束があり  

 ました。どうしても急いで行かなければならない用事 

 がございます」      

         

主人「ほう、大根屋、それでは荷台の大根全部と 

 金たらいも買うてやる・・・」         

         

「ひゃっ」大根屋は腰を抜かして絶句した。         

         

主人「見たところ商いがうまくいっていない様子、大根

 屋、世の中病気は数あれど貧乏という病気は中々辛

 いものじゃ。

 可哀想に大根を買うてやろうと想ったが、一旦は断って

 みた。 

 するとお前は金たらいを持ち出した。

 これもまたよいかと見逃そうと思案したが、それで

 は・・、と思い呼び止めてみた」

         

 「お前の大根は全部買うてやる 金たらいも持って行

 け。ただし家に帰ったら、その金たらいで顔をあらって

 おくれ。 

 顔の垢ばかり落とさすに、心の垢も洗っておくれ。

 それがわしの願いじゃぞ。」   

         

大根屋は主人の云うとおり大根を全部買ってもらい、金たらいもおしいただいて家にかえった。

そして皆にその話しをして、三年も経ずに立派な八百屋となったという話は有名な話。 

         

貧乏な大根屋に喩えたらそれは今の私 。    

人のいい主人と喩えたら阿彌陀さま。         

貧乏とは心の病。       

大根というたくさんの荷物を背負い込んで、夕方という臨終が近づいている。         

 

たくさんの荷物とは煩悩、悩み、四苦八苦・・・。

それをいっぺんに阿弥陀様にとってもらい、南無阿弥陀仏という金たらいを頂戴した。    

         

有り難や。有り難や。

我が身のことは我が身が一番知っているとおもいきや、

それは案外知らないもの。         

我が身のことを一番よくご存知な方こそ阿弥陀様。

       

金たらいならぬ南無阿弥陀仏をおしいただいて日々心身ともに濯ぎたいものであります。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 30 1月 2013 08:43)

    久々ないいお話ですね。
    是非とも お取り越しでも
    お話しください。

    ヤンヤ ヤンヤ。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 30 1月 2013 23:08)

    ありがとうございます。
    一種独特、節談の説法は、色々な方がチャレンジして
    おられますが、まだまだ私には自信がありません。
    しかし肩肘張らずにやってみればそれでいいのですよね。
    地方の説教大会などでは前座に小学生くらいの子供が
    輪袈裟を着て、上がっていますので驚かされます。