武士(道)はオトコがお好き  衆道 

「ニューハーフ」は吉本新喜劇の小ネタで比較的よく使われる言葉ですが、友人「奥の墓道」のそのまた友人の友人にいわゆるその手の「男性」(というか女性)がいます。

 

ホンモノを目指して色々と「自身」に細工を施しているそうで日々その手入れが尋常ではないとのこと。

人それぞれの考え方により、「そうなった」のですからまぁそれでいいのでしょうが、その方の友人から見れば幼いころから勿論「男」として付き合っていたところに突如として「女」に変身したものですから、付き合い方に非常に困惑することになったという話を聞きました。要は懇意にしている友人が突如女になって時として迫られもするという状況ですね。

 

 歴史上はそんな転換の技法は確立していませんし、「性同一性障害」などという言葉はありませんので俗説はあったとしてもその手の話は聞きませんね。

しかし同じような「通常の考え」からは今では違和感がありますが「武士道」ガチ肯定の「衆道」という習いがありますね。

 

 「衆道」とは「男色」の事で男が男を求めること。

対象者を「若衆」とも言います。

男→女という今では普通の思考に別の回路が働いていたようです、昔の人は。

特に武士の世界では強い者の嗜みのようなものだったのです。

姫様の入り得ぬ場、男だけの場でそれらの趣向はあったのですが、あまりテレビの時代劇等ではクローズアップされませんので今ではそんなこと「嘘だろ」と思う方がいらっしゃるかも知れません。

私は「新撰組」を描いたドラマで1度見ただけです。新撰組内での話は以前より聞いていましたが。

古くから日本の風習として非倫理という感覚は無く「正常な」ものとして記録が伝わっていますが、とても真面目な書物、北畠親房の「神皇正統記」にもその辺りが触れられているようです。

もともとは公家や高級僧侶の習慣から武士の世界に流行ったものですね。

 

 信長の森蘭丸等森兄弟や前田利家などの小姓をその対象として脇にはべらせたことなどが有名な話ですが、他に戦国武将の男遊びの話は噂レベルのものも含めかなり残っています。

対象となった若衆も成長して屈強の武士となれば今度は逆の「役まわり」となったということが現代と違うところですね。

江戸時代の井原西鶴「浮世草子」にも数多くのエピソードが記されてそれらの行為がごく普通の営みであったということがうかがわれます。

 

画像は井原西鶴像。