日本坂トンネル西 石脇城

安倍川西岸の山(徳願寺―画像①)から南方、駿河湾の手前には用宗(もちむね)は持舟城、その手前に国道150号バイパスと東名高速が走り、スグ西方には日本坂トンネルがあります。

(用宗駅南の旧150号線は大崩海岸沿いに焼津に抜ける道です)

その日本坂トンネルを焼津方面に抜けてスグに石脇城があります。

 

石脇城は東名高速日本坂PAの東南東で(場所はここ)住所地も「焼津市石脇上字天王田」と「石脇」の地名が。

その城跡の南側に150号バイパスが走っていますので、現在はその2つの大きな道路に挟まれて、直線で約200mのまん中あたりにあります。

荒技ですがPAに車を停めて散策も可能な城ですね。

画像は上り線から日本坂を望む図です。

 

 

この城は北条早雲(伊勢新九郎盛時)が今川義忠より招かれて客として滞留した城ですが、義忠亡き後、北川殿とその子龍王丸(今川家七代今川氏親)の後見役として再びこの城に入りました。

 

 後見役と言っても今川家本来の実質の後見役は義忠の従弟である小鹿範満(おしかのりみつ―「小鹿」の地名も静岡に残ります・・・静岡競輪場周辺)でしたが範満はあくまでも龍王丸の元服までのピンチヒッター。

 

 ところが龍王丸が十五歳の元服を迎える頃にあって駿府に尚も留まって、よもや家督を相続しそうな不穏な空気。

そこで伊勢新九郎盛時は母子を焼津の小川城「法永長者」の長谷川政宣の元に逃がしていましたが、また同時に着々と軍備を整え、策略を練ったのち小鹿範満を駿府に攻めて自害させます。

 

 そもそも新九郎盛時は今川家の家督相続の紛争を調停するために幕府より駿河に下向させられていたのですが、その調停相手は小鹿範満が後ろ盾にする太田道灌だったことはブログ小川城のところでも記しています。

 

 

この駿府入り直前の日本坂という大きな丘陵を控えた地にある平山城、石脇城は高低差は30m程度で苦はなく登城できます。

ただし登り口は一旦150号方面に廻って畑と民家の並ぶ細い登城口を見つけてください。

 

城山(じょうざん)八幡宮が城址山頂に