おかねもちの どーらく  道楽

「道楽」とは本来の仕事以外のあるいはそれを超えて自ら

その道を楽しむことで、昔から色々な方面に活躍される

「道楽者」がおりました。

現代ではそれらを生業としている人もいますのですべてが

そうであるとは言えない時代ではあります(趣味と実益を兼ねるなんて言葉もありますね)。

 

 和歌・漢詩・園芸・造園・芸能・茶道・華道・香道・修験道・川柳・俳句・狂歌・ペット(生類憐み)・・・から最近では

酒・女・バクチと多種多様。

前者は平安、鎌倉から室町にかけていわゆる「文化」として

開花構成されたものですね。

趣味が極まって1つの拘りを持ってハマり込むことをも言いますが最近では「依存症」的「その道」(時として変質的コレクター等)もある様です。

 

 しかしそれらはすべて本来の仕事とはかけ離れていてそちらの方を無視してまで一本やりでのめり込む余力、財力が無ければ到底不可能なことです。

 

 さて、私たち国民の権利の1つである選挙権を行使できる

日が近づいています。

その権利は1票を投票する行為がその年齢に達すれば誰でも発生することなのですが、この国にはやたらと制限を付けたがる傾向(これは今なお続く維新後の国民愚弄の流れと勝手に考えていますが)、投票できる年齢制限がずっと「20歳以上」のままというのには腑に落ちません。

 

 大日本帝国憲法(発布当初は①一定財産のある②25歳以上の③男性)が廃されて1946年の日本国憲法で現行「20歳以上の

男女」になってからはずっとそのままで変わっていません。

 「若い力、バイタリティの渇望」「もっと若い人たちに・・・」「若い人たち頑張れ」などと口では言いながら、そのシステムに参加をさせる権利も与えず、中には自分の人生終盤になってまで、のうのうと立候補しようなんぞいう輩も現れる始末、私から見れば「図々しいにもほどがある」

といったところでしょうか。

 

 2007年に公布された国民投票法では、投票権は「18歳以上の者」と規定されていますが、何が都合が悪いのか難癖をなんやかやとつけて「公職選挙法上の選挙権」の改正に着手せずに未だ「20歳以上の者」のみとなっているのです。

高齢化社会にあって選挙人のバランスが若年層が相対的に薄くなってこれではとてもじゃないですがフェアな配分とは言い難いですね。

まったく社会の変遷に付いていけていないのがこの国の政治です。

既得権者はきっと若年層に今の地位を脅かされるのではないかという不安がもたげるのでしょう。

 

 ちなみに世界の趨勢は圧倒的に選挙権18歳、成人18歳です。中には16歳なんて国もありますから、遅れてますね、我が日本。

 

 選挙権というと投票する権利と普通に考えがちになりますがそれに対して被選挙権というものが立候補する権利ですね。

縁の無いことで殆ど興味「ありませ~ん」のところだったのですが、実際に立候補するとなると凄まじいオカネがかかるのだということが知らされました。

 

 今回このドサクサ(解散総選挙)で突然既成政党から鞍替えした候補と鞍替えされてしまった元党派で選挙資金「返せ」「返さない」が俄かに噴出、揉め出したとのこと。

その金額たるや「庶民感覚」からかけ離れていますね。

 

 またこのほど比例代表での立候補に必要な1人当たり

600万円(比例区・・・小選挙区は300万円)の供託金が 確保できずに立候補を辞退するというニュースがありましたね。

 

 当選すれば「元は取れる」ようですが落選したら目も当てられない、でも先生(政治家)稼業一度やったらやめられない、そんなところでしょうか。

まさにバクチ。素人は手を出してはいけません。

こうなると殆ど選挙は「道楽」ですね。

昔から「道楽は隠居してから特に本格的になる」そうですがこれも頷けることですね。(元都知事さん)



 参考までに各国の立候補供託金はイギリス約9万円、カナダ約7万円とか。

アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなど日本の経済界と仲良し、いわゆるライバルとなる国々にあっては選挙の供託金制度がそもそもありませんから。



 このあたりを眺めても我が国の「国民愚弄」の精神は脈々と息づいていると思わずにはいられません。

私事ですが私のゼミは仏教学ではなくて「憲法」(法学部)だったことから憲法には特に思い入れが深く、守りたい気持ちがあります。よって好戦的な人たちが特に言いたがるその「改正」なんざぁ反対ですね。核保有もしかり。

現行憲法には手を付けて欲しくありません。

 爾来、善人ズラしていても「憲法」をいじるということを口に出す輩が出たらそれは「悪いやっちゃでぇ、気いつけやぁ」(開戦・敗戦と国民と周辺国国民に苦難を強いた反省の上に成り立つ憲法であるからそれ蔑とする人だから)と教わっていましたし。

 そしてそれは何より私は仏教徒で、そういった考えは宗教的理念からくるものですからね。戦争は罪悪なのです。

それをシミュレーションすることも戦争で死んでいった者たちへの冒涜と驕りですね。戦争放棄の条文は宝物です。

国民愚弄の精神はやはり国民を幸せにはしませんね。国に戦争をする権利を与えてしまってはいけません。太平洋戦争の大義名分が「国防」であったことは忘れられません。 



9条も勿論ですが憲法第44条の「国会議員の資格は人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」という条文なんて大事にしたいですね。

600万円持ってこなけりゃぁ立候補すんな」という状況にいかにも反していますから。現状財産、収入がたくさんあって余裕が無い者には到底立候補が出来ないシステムとなっています。

それでも「カネがかからない選挙のウチ」らしいので「フツーの選挙」だとどんなに湯水の様にカネが流れるのでしょう。

やっぱり趣味的領域ですね、選挙は。

 

 自分たちに都合よく「そのままにしたり変えたり」既得権(地盤・・・票田)を子々孫々にまで(少なくともお仲間同士で新規参入は控えさせる)守っていきたいという心情と思量いたします。

 

しかし日本人はオカネ持ちが多いですね。

猫も杓子も立党して立候補。



 画像は23日にようやく脱出できたあの相良海水浴場に永らく鎮座していた貨物船。

地道に積み荷を降ろして船を軽くしたそうです。

身を軽くしなければ動けませんでした。

 

 日本はつまらない重荷を降ろして一旦休むくらいの気持ちが必要ですね。ずっと独り勝ちの経済成長を続けるなんて無理なお話だし第一、虫が良すぎます。

バブルの再来を期するような勇ましい言葉は詐欺にしか聞こえなくなった今日この頃です。

そりゃあバブルって胸躍りますものね、仕方止むなしか儚くも夢見ることは・・・。

はやく覚醒しなくては・・・そうですよね五木寛之さん。

 

コメントをお書きください

コメント: 4
  • #1

    小山昭治 (土曜日, 24 11月 2012 09:42)

    確かにいったん休んで考えたいもんです。
    でも現実はそうはイカの金玉です。
    経済も人間の生活もこれで良しというわけにはいきません。
    私のような自営ならいいのですが
    従業員や社員を雇って給料を支払っている限り
    毎年、昇給させなければいけません。
    そのためには売り上げが右肩上がりでなければ
    困るのです。
    「これで良し」がないのです。
    人間の性なんでしょうね。
    「これで良し」となりつつあるわが身は
    楽にはなりますが、遅れる感じもあります。
    早く趣味を見つけて没頭してみたいものです。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 24 11月 2012 10:08)

    ありがとうございます。
    人間の性とはいえいつも向上心を持って
    目標を追求しつづけることは大切なことですが
    もはや無理なことと諦めています。
    特に私自身。年齢もありますね。
    己の力量不足を今更嘆いても仕方がありませんし、
    背伸びをして出来もしないことを無理すれば
    心身ともに負担が蓄積しそうです。
    バブル再燃を狙って「頑張れば頑張るほど損失」をだして
    舵取りを誤った大企業と構図が同じです。

    今はただただ愚息にまともに成長してもらって
    早くバトンタッチし沖縄に滞留したり関西方面の
    マイナーな名跡を訪れてみたいですね。
    ここの地、相良が無事でしっかりと寺の引継ぎができることが何よりの幸福です。
    現実はそのことすら覚束ないのですが。
    そういう時はいつも仏の想いへの「おまかせ」ということで安堵しています。

  • #3

    鴨のれいちぇる (木曜日, 29 11月 2012 08:52)

    はじめまして。昔の大金持ち と検索して出会いました。24年前に77歳で往生した母が熱心な仏教徒でしたので、親しみを覚えコメントを書きたくなりました。文章の内容はしごくもっともで、うなずくばかりです。両親の不注意から軽い身体障害をかかえて人生を歩きましたが、独立心向上心ともに人一倍の意思にめぐまれ、可能な限りの目標達成を果たして、思うには伯父伯母と姉があわせて6人も幼児や20代で病気のために早世しており なぜか私に生きる意欲が遺伝したかもしれない いや 守ってくれたかもしれないと自覚するに至りました。祖母も他人には極めて親切な人間だったようで 祖母の積んだ徳のおかげで私が死んでも悔いのない人生を歩けたのだと特に感謝をしている者です。私は62歳になりいつ死んでもまったく悔いはありません。執着することがありません。ながなが失礼しました。

  • #4

    今井一光 (木曜日, 29 11月 2012 11:09)

    鴨のれいちぇる様

    はじめまして。
    失礼なんてとんでもありませんよ、
    ありがとうございます。

    一読するに決して平凡では無い人生を歩まれて
    尚もこれから「一所懸命であるよ!!」という
    メッセージをいただいたような気がします。

    それは言の葉の端々に、特に「おかげで」、
    「守ってくれた」(→「生かされて」)、「歩けた」「感謝」
    等々、仏教的諦観が漂って特に最後の「執着することがない」とはまさに仏への信頼→「おまかせする気持ち」(他力)を感じました。

    歎異抄の一説(悪人正機)に
    「生死を はなるることあるべからざる」のがわれら煩悩具足の凡夫とありますね。その「生死」という人生最大の
    「一大事」から離れられたということこそが
    「平生業成」であり所謂「仏」の世界に既におられること
    だと思います。

    何よりも当流ではその領域こそ
    「これからも一所懸命に生かさせていただきますよ 命続く限りね・・・」ですね。

    時間的利益としての人生は各各違うのは当然ですが
    概して人生、短いようで長いもの。
    まだまだ谷あり山あり、一つ一つ工夫を凝らして
    乗り越えて、それ自体が「生きる楽しみ」としてしまえば、ますます「悔いの無い人生」に仕上がっていくものと
    思います。
    れいちぇるさんのこれからますますのご健勝をお念じ申し
    上げます。  合掌