そろそろ「死んじまおうかな」と思いつつある方へ

前略

心中お察し申し上げます。

そのような心境に行きついたということと貴方様がこれまで体験し重ねた苦労の数々、部外者ながらお察し申し上げます。

このご時世、なかなか住み辛く生き難いものがありますね。

本当に苦労ばかりで何ら報われることの少ないことばかり、まごまごしていると時間ばかり経っていよいよ身の振り方に窮して身動きすら出来なくなりそうです。

焦燥感で息もつまりじたばたすればますますがんじがらめ。転機を狙って立ち上がっても裏目裏目で七転八倒。

何のために生まれてきたの?などとと「何で?・・何故?・・」の愚痴の嵐。

ついつい負けゲームやPCフリーズの対処の如く人生をリセットしたくもなりますね。

 

そんなこんなで思い悩んでいる方々がいかに多いことか。

そのような悩みを持つことは特殊でも何でもありません

この先進国、日本において年間3万人以上がその道を選び、120万人が鬱病だといいますから。

 

戦国時代なら潔く腹でも切って後世名利を期するという清算方法もありましたが現代はその選択はなかなか理解されないところがあって「そんな結論」を出すこと自体憚られます。

しかし「死にたくなること」くらいはいたって自然ですよ。

ただ大部分の人は実際にその結論を出さないだけで何とか踏みとどまっているのでしょう。

 

 浄土真宗的に何故踏みとどまらなくてはならないかと言えば

それは

「あなた(わたし)のいのちは授かったものであり生きるという大前提の上にあって、決してあなた(わたし)の所有権、裁量権は一切主張できないものなのです。「いのち」は齢をとれば老いて病んでいずれは死ぬことは決定事項です。時として時間的利益も得られないこともあります。しかしそのことはオギャアといって生まれたその日から決まっていること。

 

 私たちは生まれた当初 (若いころ) は周囲から祝福を受け、すくすく元気に育つことに笑顔で讃えられたでしょう。

皆に見守られて・・・。

それほどいのちは尊く讃えられるものなのですよ。

だから自分で結論を出そう(解答を求める)とすることは遠慮して躊躇すべきことなのです。」

 

ですからもう一度貴方様の自我を見つめなおして御一考くださいますように。

切に願ってやみません。正解なんてありませんから。                  

                         草々

 

是非もなく「正解」を求める社会と風潮

最近のバラエティ番組はクイズ番組が多いですね。

ゲストに正解率の高低を競わせ高得点者に賞品を提供したりしてお茶の間でもその「答え」を出し合って優劣を競い一喜一憂しています。

人の知らない事を知っていれば優越感に浸りますから気持ちイイあのドヤ顔を振りまいて、ストレスの発散にもなりましょう。

 

 これら傾向は視聴者の好みが変わったといえばそれまでですが、これまでの勧善懲悪のチャンバラ時代劇が消えてしまったことと正逆反対の状況があるかと思います。

時代劇はだいたい160分で完結でした。60(厳密には45)じっくり時間をかけて起承転結を描きそのストーリーの「解」を導き出しました。

しかし最近ことにもて囃されるクイズ番組は番組内で相当多数の用意された設問と回答と正解があります。

これは視聴者が次から次に解答を得たい、設問の正解たるや何たるかを早く知りたいという傾向や好みが顕著になった流れかと思います。

よって1つの事件の解を得るのに時間を要する時代劇は疎ましく思われて番組表から姿を消していったのかも知れません。

 

 「兵は拙速を尊ぶ」は好きな語でありますがそのように何事にも拙速に「答え」を出さなくてはいけないのでしょうか。「何で・・何故・・どうして・・」の疑問符が多すぎるのと果たしてそれらに答えを出していく必要があるのか考えるべきですね。

 

自分で自分のいのちを処断することはややもすると自己中心的であると言われます。

この言葉は一見厳しいことばかも知れませんがまんざら間違ってはいないものと思います。

法律の世界でも裁量権の無い部域に勝手に踏み入ることは越権行為です。

自我の確立は幼少期の親の思いであり独立心と成長を窺わせますが成長後の「自我」の強調はいたってマイナスのことばかりであるから「今一度自我を見つめてみろ」というのが仏法だと思います。

 

ところが仏の主張はわかった気がしますが我々が実際に生きている「世間」とは人間個々にとっていったいどのようなものなのでしょうか。

 

名利と出世

川村妙慶師の言葉を借りれば「世間」とは①比較②人材③如意。

「世間」とは人を比較の対象として捉え、人材として捉え、思いのまま(如意-意の如し)になるのかならぬのかで捉える、です。

これは他者から見た自分、そして対象を自身の目が捉えるところ両面ですね。

それら3つの相互に重なる思いが交錯しているのを「世間」と云いその中に「名利を求めて出世」しようという心が人間の自我でしょう。

 

 そもそも名利とは仏語「名聞利養」が語源。

「貪り求める心」を言いますが究極の名利は「仏門に入って出家する」こととも言いますので坊さんも軽々しくその「名利」を批することはいけませんね。

煩悩から離れたい、学問を修得したいということもいわば我欲のうちと

 

 貪欲(とんよく)は煩悩の最たるものですし、これがすべての「何で・・何故・・」と思い悩む要因になっています。

そして「出世」、これも仏語で「出世間(しゅっせけん)」が語源。「俗世間の煩悩の塊から解脱して悟りを得ること」あるいは「仏門に入ること」です。よって昔の言い回しだったらこれらは「坊さんの事」でした。

 

 現代の意味で「名利と出世」はサラリーマンで無くても社会に出ればそれらを求めてがむしゃらになるのが普通に捉えられてきたものです。素晴らしき人の常道として。

しかし私なりの答えを探そうとすれば(1つの答えではありません)がそれらを追及することがいかに無為なことかと。

 私は「名利と出世」=幸福の追及という思考回路こそリセットすべきものと思います。

そのような幸福を求めることがいかに不可能なことばかりで虚しいことであるかをハッキリさせなくてはなりません。

 

 人間はここでもそれらが成就できない、思い通りにならない自身に対して「何故、何で」等の疑問符という愚痴によって自身を守ろうと必死に努力し、しかし守り切れずに仕舞には「いのち」を放棄するまでに追いつめてしまうのでしょうか。

 

 そうですね、答えは出さない事が肝要なのです。

答えは出ないのでハナからそれを導き出そうとしない。

それこそが仏法的処世法です。

生まれたことに何故と疑いますか?老いることに、病を得ることに、死することに「何故、何で」と解答を探しますでしょうか。

「生老病死」は四苦八苦の四苦。人間として生まれ出たら必ず通らなくてはならない苦しみなのでした。

その他に貪欲・瞋恚・愚痴という煩悩を代表する三毒から派生した残りの四苦が⑤愛別離苦⑥怨憎会苦⑦求不得苦⑧五蘊盛苦。

 

 全部で8つの「苦」をあわせて四苦八苦。このように苦ばかりなので人生は「一切皆苦」と言われる所以なのです。

答えを欲しがらない、解答は無いに等しいのです。

これを真宗では「おまかせ」とか「他力」というスタンスで「受け入れる」といいます。別の言葉でいえば流れに逆らわない、「大丈夫、何とかなる」の一休さんの心意気、有り難いですね。

本日の静岡別院の川村妙慶師の講習会に参加して思ったこと徒然。

また支離滅裂の秋の夜長。

あの座礁船は見捨てられたのでしょうか。まだ相良の海におりますね。

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コメント: 2
  • #1

    ただの人 (月曜日, 21 4月 2014 20:28)

    始めまして、こんばんは。
    辛くなった時に、これを読ませて頂き、
    ぐっとくる何かに、救われております。
    取り急ぎ、お礼を伝えたくて、
    コメントした次第。乱文失礼しました。
    ありがとうございます。

  • #2

    今井一光 (月曜日, 21 4月 2014 23:25)

    ありがとうございます。
    拙ブログに目を通していただき、またコメントまでいただき
    嬉しく思います。

    特に「救われる」などとのお言葉、こちらこそが「お救いいただいている」という何か(仏の)見えない力を感じるところです。本当に有り難いことです。

     御礼を申すのは私の方です。ありがとうございます。
    お互い「気張って」いければいいですね。何事もダメ元ですから。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。