家康の隠れた古井戸 実物

牧之原市教育委員会発行の「波っこ」に紹介されたの家康の隠れ井戸を訪問しました。

今は井戸としての水利はありませんのでここから10mほど離れた場所に新しい井戸が掘られていました。

深さは当地特有の砂が堆積してして殆ど埋もれていますが口の形は丸では無く楕円形です。

 

井戸は本文にもありますようにもともとそう深くはなかったようですが既に口の石垣は崩れて畑の中に口を開けているだけでした。

おそらく新井戸と同様に石材か木製の蓋があったのでしょう。

家康は数人の家臣とともにこの井戸に降りて家人に蓋をしてもらって潜んだのです。

 

家人は家康の助けてもらったお礼、「目通り土地を許す」「前田と名乗るがよい」と言う言葉通り名字の名のりを許されたうえに広大な土地の所有を許されたとのこと。

現代にいたっても相当広範囲に茶畑等の土地を所有されているそうです。

当家は明治以降、女系家族であったかと思います。

そのために土地の相続分割が進まなかったのかも知れません。

法制化以前は当主が継承するのが当然で現在の様な「法定相続分」などという発想はありません。

現当主も8人の兄妹のうち、ただ一人の男子で女子はすべて嫁いだと。

 

それにしても十数年後に天下統一を成し遂げる人物が突然に家に転がり込んで、匿ってくれと乞われて、それを助けるなんてシチュエーションはまったく稀有なことでしょう。

だいたい「将来の成功を条件のタラ・レパ」など政治屋さんの口から出まかせのマニフェストの様なものですから、まったくアテにならないことですからね。

 

 当家茶畑の仕事は今年の1番茶をもって終了させたとのこと。

農業は当代で終了の様です。年齢の問題が第一と仰られていましたが

少し寂しく思います。

 

当家は明治初まで代々当主は「孫右衛門」。

この地はかつて「四ノ宮村」と呼ばれていました。