家康の隠れ井戸

地域伝承のむかしばなしについてまとめた牧之原市教育委員会発行の「波っこ」に以下の様なお話が掲載されています。

 

家康が天下統一を成し遂げる前の昔の話です。

家康が戦で追われ、今の細江の根松(ほそえのこんまつ)あたりまで逃げてきた時のことです。

その頃の根松は大きな木で囲まれた百姓家がぽつんぽつんとあり、田畑は屋敷の囲りだけという寂しい所でした。家康は敵の追手に追われ、数人の側近と共に身を隠す場所を探しておりました。

数十騎の敵は背後に迫っています。

とある一軒の戸口を叩き、

「敵に追われている、匿ってはくれぬか」と頼みました。

その家の主人が出て来て、困った様子で、

「さぁて、こんな家の中に隠れてもじっきに見つかるで、どうしたもんか」しばらくして、

「そうだ、ええとこんある、こっちへ」と屋敷のすみの大きな樫の木のそばにある井戸の所まで案内しました。

「今年は日照り続きで、井戸の水はだいぶ干上がって水の深さは大したことはないで、こん中に隠れるとええ」と太い綱を使って、家康とその家来を次々と井戸の中に降ろしました。

「しばらくの辛抱だで、咳などしんように」と声をかけ、急いで井戸のふたを閉めました。追手の声がだんだんと近づいて来るのが、井戸の中に居てもわかります。とうとう、この屋敷に踏み込んで来たようです。家康たちは、

「もはや、これまでか」と覚悟を決めました。敵は、

「家康が逃げ込んで来たな。どこだ。匿うとためにならんぞ」と怒鳴っています。主人はひるまず、

「何をおっしゃるだ。わしらん家の者たちはこのとおり、戦から逃げる支度で、朝から出たり入ったりしていて、おかしな人は一人も見ちゃあいんし、通りもいないっけに」

「そんなはずはない。逃げ込んだとすればこの家しかない。家の中を探すぞ」と、どたどた踏み込んで来ました。ついに庭の納屋から井戸のそばまで来ました。すると主人が進み出て井戸の前に立つと、

「お侍さん、わしん思うに家康はもっと南に逃げたのでは無いかのう」と落ち着きはらって言いました。

追手はしばらく考えていましたが、

「うーん、これだけ探していないとすれば、そうかも知れん。皆、浜まで下がれ。松林の中をしらみつぶしに探せ」と叫び、走り去って行きました。どのくらいたったでしょう。あたりが静かになった頃、主人は井戸のふたを取り、

「お侍さん方、はぁ、大丈夫だに。綱を降ろすで、上がっておいでなはれ」と呼びかけました。

「かたじけない」「助かった」と家康たちは井戸から上がりました。主人は家の中に招き入れ、

「こんなもんしかないけぇが」と白湯を一杯づつ出してくれました。家康はこの主人の気転と度胸に大層喜び

「わしが天下をとったあかつきには、お前をこの辺り一帯の地主にしよう。まずは以後前田と名乗るがよい」と言って『目通り土地を許す』とのお墨付きを残し、家来と共に去ったということです。

 

さてこの話はただの昔話では無いようです。当山ご門徒さまの波津の川村さんは上記話の伝わる前田家から嫁がれましたが、実家にはそのお墨付きの書状と箱が残っていたそうです。残念ながら書状はどちらかに貸したきり返却されずにいるようで手元には無く、壊れた箱のみがあるそうですが屋敷にはその井戸の跡も残っているとのこと。ぽつんと1件あった家の周囲に田んぼがあったから「前田」と名乗らせるなどとは面白いところです。 

略図は「遠州歴史散歩」の高天神周辺図ですが赤い矢印が旧榛原町細江の根松付近で現榛原病院辺りです。ちなみに

2諏訪原城(牧野原城) 7相良城 8滝境城 9小山城 10田中城です。

天正三年(1575)6月 家康は田中城を攻め、また、8月には諏訪原城攻略。そして小山城攻撃しています。(→高天神関係略年表)

天正五年10月頃の松平家忠日記には天正三年に徳川方の手で落とされた2諏訪原城が牧野原城と改名されて当時の徳川方の橋頭保として家忠以下重臣が詰めている記述がありますが依然武田勝頼は9小山城(小山今城)、10田中城、1高天神城に城を確保しこの地域での双方の小競り合いは継続していました。この話のあった時期としては8滝境城の周辺民家に伝わる武田信玄の民家逃げ込み話(→鍋蓋様)も同様に残っており(元亀二年1571)、混戦状態の当地区の状況が窺えますのでこの頃から長篠の戦いでズタボロに戦力ダウンされた天正三年、それでもまだ遠州に未練が残り武田勢に戦える余力のあった天正五年頃までのことだと思います。以降武田家は天正九年に高天神を放棄し翌年には滅亡と坂を転げ落ちるように衰退していきます。