再び正義のこと 荘子にきく

ごめんなさい
ごめんなさい

正義の追記です。

「義」とは、いわばその語源は「カッコイイこと」です。

 

メリハリのついた美しさで間違っても決して後ろ指をさされることが無いような行い、特に戦国時代ではそれこそが天道とも思量されたと思います。

天道とは漠然と仏教的世界観の自然(じねん)なる大道(仏道)で、人間の、特に『私』の「我」そのものや利(私利私欲)に対する言葉かと。

 

 

問題はそのうえに来る「正」という文字ですね。

スンナリとその「正」を受け取れば当流一番の経典「正信偈」があってその「正信」の使われ方、親鸞聖人のお考えには異論はまったくありませんし、まさに「ただしい」以外の意は無いと思います。

 

しかし、一旦その「正」が「義」に付いて「正義」を吹聴すれば現在少しばかり胡散臭いイメージになってしまうのは私だけでしょうか。

 

100人いれば100色の「正義」があるということでしょう。

それもその筈「正」という字を紐解くと「一」と「止」に分けられて「一」は「□」(所・区画)をシンプルに描いたものだそうでいわば領地、城を表わしているとのこと。

 

「止」は「ストップ!」のイメージですが逆に「歩」を簡略化した「ゴー!!」を表わすとも。ということは・・・「正」とはやはり・・・

領土に進む→城を盗る→国を盗るということであって「義」とくっつけば「国盗りはカッコいい」「カッコイイ侵略」、それこそが「正義」であったと相当穿っていそうですがそのように捉えられるかも知れません。

 

ちなみに「民」の語源は「目を潰された」の意です。

その「民」を治めるのが国ですが都合の悪いことが発生しそのことを隠されてあたかも盲目的に信じる以外方法の無い我々は、まさに国(らしきもの)による作為的な情報統制の下に管理された無知蒙昧国民であり続けるのでしょうか。

 

その盲目の民の上にあってくっついたり離れたりの繰り返しの政治ごっこは私ども目が開いてくると笑止千万の愚行に見えてきます。

 

 

荘子

 

以利合者 迫窮禍患害相棄也

 

りをもってがっするは「きゅうかかんがい」にせまられてあいすつ

 

(私利私欲、おカネのために集まった者はにっちもさっちもいかないようなヤバい状態にぶつかるとそれぞれを捨てて自分だけが生き残ろうとする)

 

以天属者 迫窮禍患害相収也

 

てんをもってぞくするは「きゅうかかんがい」にせまられてあいおさむ

 

  (天の道をわきまえ、その義に生きる者はにっちもさっちもいかないようなヤバい状態にぶつかるとそれぞれが助け合って一同協力しあって解決しようとする

 

画像は野鳥の巣(鳥の国、領域)を誤って侵犯し途中で伐採作業を中止した図です。鳥にとっては死活問題、大迷惑な所業でした。ごめんなさい。