戦没者法要

今月の榛南仏教会、長興寺様からの帰宅時に山回りで萩間大興寺様と菅山大聖寺様にポスターを届けました。静岡市の護国神社で催される毎年恒例の法要です。

 ☆4月26日(木) 午後2時15分

  静岡県戦没戦災死者慰霊標前

昨年は会長のピンチヒッターで私が出席させていただきましたが初めてのことで相当まごついたことを覚えています。

このこともそうですが次々にいろいろなことがめくるめくやってきてひとつひとつ積み重ねてまた一つ年をかさねていくのだと漠然と感じます。

そんな時私は同じことの繰り返しや過ちの繰り返しというイメージに「累々」という言葉が浮かんできます。本来は「たくさんある」という意なのでしょうが「同じことが何度も」という意もあると思います。どうしてもマイナスで暗い、反省の伴う語のような気がします。

「塁」のお話塁ケ淵(かさねがふち)の不気味さも切り離せません。

あの戦争に対して「同じ間違いをしません」という誓いをたてたことを少なからず1年に1度は思い出すべきですね。戦争を全く知らない世代だからこそ。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (土曜日, 17 3月 2012 10:13)

    戦争はいけないことだと思います。
    でも 武力、戦力は持っていなければいけないと思います。
    この狭間でどうしたらいいのか考えさせられます。
    何でも話し合いで解決できればいいのですが
    北朝鮮、イラン、中国など本当に話し合いできるのか
    疑問に思います。
    時々 「日本も核を持つぞ」という考えもよぎります。
    口で言うほど簡単にはすみません。

    今 日本の北海道や新潟が某国に侵略されたら
    また 原発が襲われたら日本人はどうするでしょうか。
    ありえない想定でしょうか。
    「想定外」も考えなければいけないのではないでしょうか。
    ただ その際に国土を守るため日本人は立ち上がれますか。
    戦いに行くという日本人は10%に満たないということを
    聞いたことがあります。

    戦争はいけない。と武力、戦力は別問題。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 17 3月 2012 20:22)

    ありがとうございます。
    その問題は人類の体現してきた永遠の課題ですね。
    敗戦国としてポツダム宣言を受諾し憲法9条で「戦争放棄」を制定、平和国家樹立を世界に標榜したという経緯がある中、日本国はことさら「次の戦争」(あるとしたら)へのステップを積極的に歩むことは出来ないでしょう。
    また戦力比較、民主国家度からすればもはや同じ土俵で戦うのは不可能なレベルです。ひたすら喧嘩の停め役になって戦争など野蛮な行為に走らないよう国家間の調整に期待したいものです。いやはや「政治屋」の跋扈を許容するわれら国民では心もとないところです。