午前中、時折陽が顔をのぞかせるなかで白いものが。ここ相良では本当に珍しい景色です。
節分という行事がありますが当流にはそのご縁はございません。
小生がそのイベントで大騒ぎした思い出は幼稚園の頃だったような。
両親が当時宗教的観念が薄かったのか小生は近くのクリスチャンの幼稚園に通いました。キリスト教でも子供を喜ばすにはそういう習慣への違和感はどうでも良かったのかと思います。おかげさまで人間の能力を超えた絶対的存在については漠然とですが早くから意識することができましたが・・・。
さてご門徒のお寺で節分のイベントをしない理由はというと「門徒もの知らず」の項目をお読みいただければと存じます。
阿弥陀様の教え以外の雑念~因習とかしきたり~に振り回されないという教え~一心一向~もそうですが、歴史の中で「鬼」の概念について考えれば(あるいは「土蜘蛛」~土籠り~)古来から支配者側から見た被支配者層または反対勢力に対する差別用語であっていわゆる変則擬人化でしょう。
忌み嫌うべき人間を忌み嫌うべきモノに譬えた形であり支配者が支配下にある人々に都合よく支配を拡大するための必然性、合理性を説くための造語であることが多くあったものです。桃太郎の伝説なども明らかにそんな裏がありました。ねぷた祭りもしかり、自分に都合の悪いことをする人間はみんな鬼だったのです。前回の大きな戦争の時も『鬼畜・・・・』との宣伝があって国民は大いに刷り込まれましたね。
地獄に居るといわれる「鬼」ですが仏教の世界での、特に当流では地獄も極楽も場所の概念では無いといわれます。
わかりやすく言えばそれらはすべて「わが心の中」にあると・・・
ですから「鬼は外」と言いながら豆は我が口にほうばればいいのでは。
しかし豆をぶつけて退散するほど我が心の「鬼」はそう柔ではありませんが。
鬼は決して外にあるものでは無いのです。
コメントをお書きください
小山昭治 (金曜日, 03 2月 2012 10:00)
「門徒もの知らず」 認識を新たにしました。
リンクをじっくりと読ませていただきます。
親鸞の言う「悟り」も納得できますが
禅宗での修行も否定はしません。
それなりに立派なことだと思います。
所詮私にわかるものではありません。
ただ すべて甘えであっても
自分で自分なりに納得しております。
その甘えが「鬼」かもしれません。
今井一光 (金曜日, 03 2月 2012 17:21)
ありがとうございます。
真宗には真宗の良さがありますしそれぞれの宗派には
それぞれの良さがあります。若輩者の小生は真宗の坊さんとしてまるで「知った風」の持論を記させていただいております。またその生活者としての体裁は何とか繕ってはおりますもののそれはそれは何とも拙いもので真宗本場の聞法道場などに引っ立てられればその半端な修練に恥を晒すばかりだと思います。(それでもわかっていながら開き直って「本願ぼこり」の我が心が展開します)
私たるや真宗のことでさえそうであるのにまして他宗のこととなるとその本質はまったく知る由も無く完全なる無知であります。ただ同様に私の納得している点は「ダメダメなわが身はいかなる行においてもダメダメ(煩悩のかたまり)で救いは期待できない、ただ阿弥陀さまの掌の中に生かされている自身を認めまた、これからもずっとその救いにのみわが身をまかせるしかない。一向に信じご称名するだけです」ということでしょうか。