一日中、雲多めながら穏やかな天気。
各地雷雲の発生についての報道がありましたが、ここ相良に関してはとても安定した空を提供いただきました。
法縁の施主は数カ月前に背骨の圧迫骨折で患っていたそうで「本日のお参りに来れるかどうかわからなかった」そうでした。
リハビリで「歩け歩け」と医師に尻を叩かれるそうですが「痛くて痛くて」と。それでも我慢して歩きの習慣を続けていかないと筋肉が落ち、転んで骨折して入院、再び筋肉の縮小の悪循環を巡ります。
そこで気力をなくし、ますますべての前向き、積極性というものが消滅、寝たきりに。また同時に認知症にもなることはよく知られています。
特に女性に多い圧迫骨折は骨粗鬆症由来であることは知られていますのでその骨の劣化と消滅をどう食い止めて「今」をずっと続け生涯を全うできるかということ、検討しなくてはなりません。
「痛み」というものに対し他人は理解はできないもの。ただそれに「付き合っていけ」というのは酷なことですから、家族のフォローは大切です。
扨、世の中には事に当たるに他から見て如何にも酔狂を思わせる人の思いというものがありますが、今回のWカップの件、私は既に興ざめの域。
FIFAの金満体質、金儲け主義もそうですが、放映権料の高騰からか以前あったような、のべつまくなしのテレビ放映サッカーテレビ観戦三昧とはならないからです。
チケット代金も嘘のような高騰でスタジアムはガラガラとも聞きます。
アンチFIFAの地道な本当のサッカーファンの良識が出現しているのかと。プレミアムグッズ販売、イベント、見世物多し・・・金持ちの華麗スポーツ劇場と化してしまった感、辟易です。
小金を持ったお調子者たちのお祭り騒ぎ・・・そんな感じ・・・。
スペースXの話題もしかり、あの人物を信じることができませんし兆長者なんて・・・一つだけ私が知っている事実はそのカネを持って天国などへは行けないということ。
どんな栄華も刹那、一瞬だということ。
日本で言えばあのカリスマ永森会長殿。凋落甚だしいようで。
お祭りイベント好きの日本人はそれでも大金をはたいて観戦ツアーに出向く人たちがいるようですが、私からすれば正気の沙汰ではありません。
まぁ何を趣向するか沼るかなどは人それぞれですがね。
私が少々時間をかけていた自身でもバカバカしいと思われるようなことと言えばある書面の書き写し作業でした。
初めは一見して面白いタイトルであり、何時かは拙ブログで紹介出来ればと思いながら書写していましたが、途中で「なんじゃこれは・・・」の呆然。
一旦は投げ捨てようかとも思いましたが。
しかし、折角のそれを完全に徒労として捨ておくことは癪ですのでやはりこちらに転記することにしました。
それが昭和62年に発刊された「浜岡人物誌」~佐倉・比木編~の「村上開墾と村上俊五郎」でした。
自治体から出した一定の権威と責任がある書籍ですし。
今年たまたまある方からの年賀のご挨拶の中、村上俊五郎の豪快さや勝海舟の妹の順が佐久間象山と死別したあとにこの村上俊五郎と再婚したことが触れられていました。
それは一体その両人の推測できる性質からしてどのような生活だったのか・・・などと思ったものでした。
「村上開墾」については御前崎白羽にその痕跡がありますが、その流れも記されていました。
ところがこの文書の村上俊五郎について転記していると仕舞には村上俊五郎が相良油田(秋野氏記述)の発見者ということになっていました。頭が混乱。
となるとこの記述すべてが信ずるに足らぬものかとは思い苦笑したわけですが、ここはひとつそれを記録してもいいかとそのままブログに記すこととしました。また私はすべて検証してやろうという気にはなりません。本当のところを知りたいのですが。
★「浜岡人物誌」~佐倉・比木編~の「村上開墾と村上俊五郎」
「村上俊五郎は、村上淳蔵、又は政忠、政局ともいい天保五(1834)四国、阿波美波郡貞光、現在の徳島県美馬郡貞光村に生まれた。
若い頃は阿波の人形浄瑠璃の三味線を上手に弾いたといわれる。箪笥などの指物を作ることが上手であった。
若い時に人を斬って役人に追われた一時期、指物師として生活していたという。
剣術は天才で、自分から「文は清河、武は村上」といって学問では清河八郎にかなわないが、剣術では自分の方が上であると自慢していた。体重は90キロ以上あってしかも俊敏で粗暴という評判であった。
誰について、どのように剣術を学んだのかわからないが安政の頃下総佐原で地元有力者の後援を得て、長沼流の町道場を開いていた。
村上俊五郎はここで千葉周作と周作の道場お玉が池玄武館に入門中の清河八郎を知り、安政元(1854)に清河が江戸三河町に私塾を開いてからは、江戸に着くと必ず清河塾を訪れ、酒を飲みながら国事を語り合う仲になった。
清河八郎は安政四頃、千葉道場の先輩、山岡鉄太郎と親交を結び、後年八郎が尊王倒幕のために奔走した時、股肱となった石坂周造は鉄太郎の義弟である。
万延元(1860)三月二日に桜田門外の変が起きて、幕府権威失墜と崩壊いよいよを感じた清河八郎は村上俊五郎と共に尊王攘夷の道へ各地に奔走した。
この時の同志は、山岡鉄太郎、石坂周造、松岡万、安積五郎、池田徳太郎、伊牟田尚平、北有馬太郎、西川練造らで多数が清河塾に集まった。
これら動きに幕府は文久元(1861)清河八郎らの逮捕に向かった。清河、村上、石坂、安積ら七名は補吏一名を殺害、清河と村上は逃走、石坂周造、安積五郎、池田徳太郎、北有馬太郎、西川練造ら
は捕縛されて小伝馬町の牢につながれた。
村上は遠野南部藩の清河八郎縁故の者に匿われたがその時に指物師として過ごした。
文久二(1862)四月村上は清河八郎と共に京都へ赴き井伊直弼家臣の長野主善と組んで暗躍した。島田左近を斬ろうとして失敗している。この年七月には島田左近は土佐武市半平太の一党に襲われて首が四条河原にさらされた。
文久三(1863)山岡鉄太郎の働きかけと清河八郎らによる上洛中の将軍慶喜警護の上書が幕府に認められ、清河八郎、村上俊五郎の大赦が行われ、また石坂周造、池田徳太郎らの出獄がゆるされた。
文久三正月、将軍徳川家茂警護と浪士取締りを目的とする浪士組は清河八郎を総大将、鵜殿鳩翁、山岡鉄太郎、松岡万の幕臣三名を取締役として村上俊五郎は道中目付兼六番組小頭に抜擢された。石坂周造も道中目付兼三番組小頭として名を連ねた。
この時、武州浪人天然理心流近藤勇も道場試衛館の面々を引き連れて参加したのである。
同年二月八日には江戸を発し中山道を通り二月二十三日に京都へ着。
浪士組隊長清河は尊王攘夷の決意を学習院に上書する事件を起こし驚いた幕府は直ちに江戸へ戻そうとした。
この時、六番組近藤隊では近藤勇以下十名、芹沢鴨以下三名の十三名が京都に留まり、京都守護職松平容保の支配下に入って新選組を名のった。
帰府した浪士組は江戸本所三笠町の小笠原加賀守屋敷に収容される。その後の浪士組は江戸街区の巡視と宿舎での剣術・槍術の稽古を継続、尊王攘夷をとなえて市中の商家より軍資金を強要するなど幕府の意向に反する行動をとるようになる。
たまたま同年四月、村上俊五郎、石坂周造らにより浪人二人を斬殺する事件も起こり、処置に困った幕府は四月十三日同じ浪士組の佐々木三郎に清河を暗殺させた。
暗殺の翌日、高崎藩ほか四藩に浪士追捕の命がくだり動員人数12000人、大砲まで用意して三笠町の屋敷を包囲、村上、石坂ら六名は諸侯お預け、浪士組は庄内藩預かりとなった。
この時、一部の浪士は水戸に走って筑波党に加わり、西に向かった者は長州藩に加わるなど幕末の戦乱で、大部分の者は戦死した。
村上俊五郎は山岡鉄太郎らの幕府への働きかけにより、慶應二年三月(1866)に開放され、一橋家幕臣、関口隆吉のはからいで遠州佐倉村の神官佐倉信武の屋敷内に道場を開いて近隣の若者に剣術を教えることになった。
明治元(1868)村上俊五郎は新しい時代の到来を知り、剣を捨てた。
佐倉村を知行していた幕府旗本の宮城敬之助・大江千春の陣屋が空き家になったのでここに居を移し近在の百姓を集めて官有地の開墾を始めた。
維新後、農村では新政府の重税策を危惧して瘦地・山林を手放し無籍地となる土地が増えていたが新政府は興農策を取り、官有地の開墾を奨励、土地の無償払下げを進めた。
村上俊五郎は池の山の陣屋周辺から開墾を始め、宮内共同墓地付近及び海岸地帯から隣村の神子新田の海岸地帯の官有地の開墾を行った。
彼は博徒あがりの豊五郎を用心棒として大勢の人夫の監督にあたらせた。
当時、宮内村でも山本定平、山本要助なども働いていたようであり、今日でも池の山の陣屋周辺を村上開墾と呼んでいる。
また、宮内共同墓地及びその西側の耕地は水野喬一郎の所有地であるが、当時村上俊五郎が酒代に困り喬一郎の先代、正藏に売り渡したと伝わっている。
又、浅根暗礁は海藻類が繁茂して絶好の漁場を形成していたことに目を付けた俊五郎は明治二、旧慣を破って漁業会社を設立したが明治四には解散した。
彼は開墾資金に困ると近隣の富農から献金を強要し、断られると
用心棒の豊五郎を使ってその家を打ち壊させることがしばしばあったといい法の沢の榑林文四郎家、御前崎白羽、神子の加藤源七家宅などが被害を受けたという。
そして浜松県の高官、今堀豊太郎が巡視に訪れた際にも豊五郎を使って乱暴したという。
このように彼らの横暴は目に余るものがあり、明治四遂に農民の暴動に発展、村民多数が島田政庁に訴えるため相良平田村近くまで押し寄せる事態となったが関口隆吉、佐倉信武の説得によって事態は収まり村上俊五郎は佐倉村を去った~。
佐倉を追われた村上俊五郎は相良海老江村の富田伝五郎宅に身を寄せていたが明治五(1872)、大江大芝原で油分がしみ出ているところを発見する。
これを持って米国人クラークを静岡に尋ねて鑑定を依頼。クラークは明治四に勝海舟の招きで来日し、駿府学校に来ていた教師で洋学全般を講義していた。
石坂周造がこれを聞いて相良にのりこんで来たのが同年五月。
石坂は慶應四(1861)一月に出獄し、徳川宗家、亀之助(家達)に従って山岡鉄太郎と静岡にいた。
彼は明治六(1873)一月相良菅山に手掘油井第一号を開坑した。
この菅山の石油井戸は、後に我が国太平洋岸唯一の石油産地として、また日本一良質の油として一躍知られるようになって最盛期の明治十七(1884)には年産四千石(800Kℓ)に達した。
この事業の資金援助は周智郡森町出身の実業家、村松吉平である。
このように村上俊五郎は幕末の混乱期にある時は政に関与して東奔西走して一流の剣士らと交友しある時は事業家として生き、多彩な活動をした人物である。
石坂周造は明治十二(1875)東京から相良町波津の天香閣(元の宝泉寺本堂)に移り住み、村上俊五郎を片腕に石油事業を進めた。
明治十二に石坂・村上らが第二井を掘るための出資金の受取証が比木の萩原佐三郎宅に残っている。宛名は佐三郎の祖父佐吉になっている。
村上俊五郎は清河八郎の死後は山岡鉄太郎に兄事したが、鉄太郎の伝記によると村上と松岡万、中野信成を鉄門三柱と呼び、門下生のまとめ役は石坂周造とある~。」




コメントをお書きください