東大寺復興 山田の道安 岩掛城(山田城)道安遺跡

昨日の体調不良を引きずっていました。まぁ、いろいろありますね。ここのところあっちこっちガタが出現しています。

法縁がないことをいいことに殆ど一日中庫裏でうだうだ。

夕刻にさらっと小堤山を一周したくらいでした。

最近、その公園の下の広場では一体誰がミニゴールを用意したのか休日にボール蹴りのグループを見るようになりました。

飛び交う言葉は中国でも韓国でもない、おそらく東南アジア系のみなさん。

数としてはサッカー2チーム分には満たないものの結構に集まってくるものです。

それよりも彼らと同じように走れるものか・・・など思ってしまうのですが、そりゃあ絶対にムリ。

パスを受けて走ってまたパスしただけで即体は崩壊するでしょうね。

いいのかな、こんな体たらくで。

 

昨日見たニュースに並んだ数字に驚かされました。

20代の生活保護受給者数が過去最高だと。

その20代の受給者数とは6万1,596人(厚労省データ)。

「特に単身世帯が約2万8,476人と20代受給者の約46%を占めていて1999年度の20代単身受給者数が約4,091人だったことと比較すると、25年間で約7倍に増加・・・」

 

それって、どういうこと?とピンとこない私がいるわけですがそれほど日本はビンボーなの? 

トーキョーでは「億ション」だの「億り人」だの若い人たちの景気のイイ話ばかりが行き交っていると思いきや・・・。

何、その格差。どこかオカシイ。

「親に迷惑をかけられない」「そもそも親たちにその資力がない」などの理由があるようですが、稼ごうと思っても貯蓄できるほど稼げないというそのシステム。

一定の金額を超えて給与をもらうと受給停止になるということがそれで、必然的に余裕、蓄えができないという流れ。よってそのビンボーの呪縛から抜けられないのだそう。

 

やはり政治というものが本当の意味で人のためになっていないのでは・・・。やはり政治屋はそういった末端の困窮など「知らネ~」を決め込んで「今」の自身の地位の維持のみに傾注するといったところ。

これでは日本の華やかな将来など期待できるはずもなく。

先日も記しましたが、人口を増やすためには・・・生活保護から脱却してもらうにはどうしたらいいのか・・・真面目に、そして前向きに考えていただかないと。

 

扨、以前うろついた奈良。私は奈良方面に向かうに名阪国道より針で降りて彷徨うことが多いのですがそこから奈良市街方向に向かってしばらく行くと山田という地に至ります。

山田小学校の裏に布目川を外堀に見立てた要害がありますがそちらを山田城(岩掛城)と(場所はこちら)。

 

山田氏ほか城塞については城郭大系に詳しいのでそちらを。

「山田氏は至徳元年1384」の『長谷流鏑馬日記』に名の見える大乗院方国民で、筒井氏の同族であるが、西隣のやはり筒井同族の福住氏と対立した。

西に進出できないかわりに、北の別所・水間・田原および南方の都祁(つげ)盆地北端の針に勢力を伸ばした。

文明三年1471、当時は『山内(東山内の田原~都祁)はことごとく山田が進退する・・・』といわれたほどの力を持ち、乱中は古市方に属していた。乱後、筒井方に復した。

順貞(道安)の時、筒井順慶の大和平定に大きく貢献したが、福住氏に敗れて馬場城に退き、松永久秀の兵火で焼け落ちていた東大寺の大仏再建の勧進に協力した。

当城は東の馬場城とセットになっていた。

永禄九年1566一月、それまでに松永方の多田氏の占領していた『山田古城』を奪い返したという(多門院日記)から、馬場城に対する古城が当城に相当すると思われる。

 

城跡は尾根先端部の①が主郭で(上記画像最後の図)その尾根続きは空堀Aで切断されている。東西に二段の小郭が付属するが、基本的に単郭の小城郭として完結した縄張りである。

②の郭は面上が未整形であるが背後を空堀Bで切断して一応郭として成り立っている。空堀Bは東側斜面が急で西側斜面がゆるやかなのでBは明らかに②を守るための空堀であったと思われる。

①の次に②ができ、ここで完結した段階が想定できる。

ところが、さらに尾根を登ると空堀C、やや平坦だが未整形の③④⑤の平地があり⑤に隣接する空堀Dは東側斜面が急で西側斜面はゆるい。ここで城域は終わりである。

 

空堀Bから上は未完成としか言いようが無いが空堀Cは立派に完成している。郭より先に空堀を造ったという城郭普請の過程を示す事例と言える。

また①②、そして③④⑤という三段階は、山田氏の成長過程の諸段階を示してくれる。

当初は山内各地に点在する単郭館城を持った土豪クラスから出発し、応仁文明頃に周辺土豪を従える山内きっての国人クラスにまで成長したわけである。

ただし築城が未完成であることから推測して、最後の普請が行われた時期は戦国最末期、山田道安の代である可能性が高い。

東方に新築された馬場城の方が本城となり、当城は福住領との境を守る支城に変わり、福住氏との戦いに備えて拡張する途中で没落し、未完成になったのではあるまいか。」

 

私がこの辺りを歩いたのはかなり以前の真冬。

今はそのような真似はできませんが、それでも周辺は相良あたりより断然冷えました。