長享二 数日で落城滅亡 高尾城 百姓の持たる国 

日が昇って少し経つと日差しはまさに夏。

浜岡方面に比木の道を通いましたが、上手になったウグイスに加えてヒバリの声が。空気も爽やかなり、深呼吸も。

帰宅後は境内と庫裏で雑多な作業を。

 

扨、昨日画像は高尾城(別称「富樫城」)見晴らし台からの景色でしたが、地理的にその立地について城郭体系の冒頭に詳細に記されています。

「高尾城のあったとされる高尾山はいわゆる富樫山地とよばれる山丘塊に属し、手取川扇状地の東縁をなす位置にある。

金沢市街に近い犀川河畔からいえばなだらかな山容をなす野田山(176m)に続いて西へ、満願寺山(170m)・通称前山(176m)・高尾山(170m)とほぼ同標高の山丘を連ねるが満願山から西の山々は山麓よりかなりの急傾斜をなして山頂に達している。高尾山から南西へは次第に高さを増し、扇頂部を眼下に見る後高(しりたか)山-獅子吼高原-では標高649mを測ることができる。

高尾山山頂に立てば前面(北北西)に北加賀平野の大部分を視野に収めることが出来る。

特にほぼ真西方向眼下に富樫氏本拠の地とされる野々市(布市)を望むことができる。現在は山裾から野々市にかけて住居地化してしまったが昭和40年代初め頃には広々とした水田が前面に広がっていた。背後(南南東)は険しい山地に続き視界は遮られるが鞍ケ嶽城のある倉ケ岳(565m)は、南方ほぼ直線5㎞にあたる」

 

上記は城の要害性と統治の象徴の姿を想像できるわけですが、先ずあの「野々市」―「布市」カッコはその地の発祥と匂わす記述で「なるほど」の感動。

また、世にお城好きの方々が多くいらっしゃる中、こちら高尾城へ東海地区あたりから「行ってみたい」などという方はそうはないかと思います。

まして城址は無残にも改変されてしまい遺構はほとんど残っていないのですから(「高尾城跡が壊滅-北陸高速自動車道の土取りで」昭和45年北国新聞)。

それでも工事は周囲が大いに慌てさせられたか中止させられ発掘調査が行われているよう。すでに遅しのところありますが。また上部の曲輪らしき場所(見晴らし台)からの景色(昨日)は一応の満足を得ることはできました。

 

私の場合、寺の宗旨ということと日本史上特筆すべき事案に関わる地としてその近くを通過するからには記憶にとどめておきたいという気持ち一番。

その歴史的衝撃事案というものが「百姓の持たる国」と呼ばれるようになった革命的とも思われるその端緒というところ。

何といってもその手の類例は他にありませんし、その勢力の精神的後ろ盾となったのが真宗系の思想でした。

 

以下城郭体系にその事件のあらすじが記されていますので調子にのってそちらも転記させていただきます。

 

「長享元年(1487)九月加賀国守護富樫政親は近江国の鈎里(こちらも)の陣中で将軍足利義尚と会っていた。将軍は六角高頼を討つための布陣中だったのである。その時政親は領国内で勢力を強めている一向宗徒の不服従を訴え、将軍の支援を得てこれを撃破したいと懇請している。具体的には越前・越中に教書を下し派兵することを願ったのである。将軍は政親の訴えに協力を約したため、十二月中には政親は帰国し、ただちに高尾城の修築を開始したという。

守護方のこのような動きを察知した一揆方は、政親の老臣である山川(やまご)三河守を介して和睦の意のあることを伝えたが、政親はこれを退けたという。一揆方もこの時点で徹底抗戦の方向をとり、洲崎泉入道と河合藤左衛門宜久を将として、久安に塁を築き布陣させている。久安は高尾城の真北約二㎞強の所にあり、高尾山上からは一揆方布陣の様子は手にとるように眺望できたはずである。一揆方はまた、越中・越前からの援軍の進入を阻止するために河北の勢力を倶利伽羅・笠野(現在の津幡町笠池ケ原か)・松根に配置、江沼勢には敷地や福田の守備につかせている。

一方、政親ね近江にあった将軍に急使を派遣し情報を伝えるとと共に支援を催促している。将軍も越前の朝倉貞景に使者を送って救援を命じているが、このような緊迫した状況の中で長享二年五月を迎えるのである。

一揆方では五月二十六日までに将兵の配備を終え、高尾城総攻撃の指令を待つだけである。政親はすでに野々市の居館を捨てて城中にあった。

一揆方の総大将は富樫一族の泰高であり、野々市の大乗寺を本陣としている。高尾城は完全に一揆勢二十万に包囲されたのである。初め政親方に与するということだった白山の宗徒らも一揆の強大さを知り、剣(鶴来)の宗徒らと合流し、その勢二千余で諏訪口(野々市の諏訪野という)に陣を構えている。

戦闘は六月五日に開始され、七日には政親勢が場内から打って出るのだが山裾の額口で退却している。

すでに死を覚悟した政親は、八日には一揆方へ書状を送り、婦女子の助命を懇請、一揆方もこれを許し城から逃がしたという。

 

そして運命の九日を迎える。まず、老臣山川三河守が打って出て戦うが彼は一揆方の捕虜となってしまう。続いて政親も一族城兵をそろえて打ち出し、激戦を展開するが、ついに死期を知り城内に退却、ここで政親以下すべて自刃して果てたという。

この高尾城攻防戦の間に幾度か越中・越前の救援軍が入国しようとしているが、一揆方の警備が固く、いずれも国境付近で撃破されている。政親の待ち望んだ援軍は、ついにその視界に姿をみせなかったのである。政親は時に享年三十四歳、遺骸は一揆方の手で大乗寺に葬られたという。以上高尾城および守護富樫氏滅亡の経緯は必ずしも実際を伝えているとはいえない。ただ、この長享の一揆以降、加賀一国の支配は蓮如の息子である三山の大坊主(本泉寺蓮悟・松岡寺蓮網・光教寺蓮誓)と有力国人の手に移るのである。」

 

信長の侵攻(1575頃)によりその「百姓の持ちたる国」は終焉を迎えることになりますが何といっても約100年の間その「共和国」が続いたのですからね。世に言う下剋上ではありますが少しばかり異色な社会がそこにあったのでした。

日本史上、地方の自治とはいえそのような形態が長く持続していたことはあり得ないくらい凄いことです。

最近のアメリカのデモで「NO KINGS (トランプ大統領)」 王はいらない」のスローガンがありますが日本では450年前にその地位を民衆の力で奪い取ったことは特筆すべき事例。