朝から晩まで、 (夜の10時頃まで)延々と雨は降り続きました。
梅雨時や台風であってもそのようにのべつまくなしに降る雨はそうはありませんからね。
土砂降りの時間も何度かありましたが、こんな日の通学通勤は想像するだけでストレスというものわかるような気がします。
静岡弁で、おぞい日・・・
強めの風も吹いていました。そういうことで朝からずっと本堂の閂はかけて戸を閉めっ放し。
この天候での墓参はさすがに「ゼロ」と勝手に決めつけたわけで。
庫裏に籠り切っていたおかげで県庁に提出する資料やら何やら事務仕事が捗りました。
扨、山中城。
浅野文庫諸国古城之図を引っ張り出して眺めてみると・・・
一瞬、間違ったページを開いたかと思うくらい私の頭の中の図と違っていました。
現場を実際に歩いた経験のあるどちらの方にうかがったとしてもその違和感があるのではないでしょうか。
以下、その図の解説者小和田哲男先生の記述がありますが、そこのところを指摘していました。
要はパッと見て、昨日まで記していた岱崎曲輪の存在がナシ。
本丸周辺の記載に重きを置きつつ、時間の経過によって遺構が確認できなかったということかも知れません。
ハッキリ言って本丸周辺を歩いても「ふ~ん」と思って記憶から消えてしまうレベル。
その図を見て一に確認したくなるのが旧国道一号線と旧東海道石畳ですね。
記載からようやく概略把握できた次第。
やはり新しくできた集落(山中城落城後)ですのでその開発のための土砂等は最寄りの城址から運んで来ることなど想像が容易い。よって遺構は早い段階で壊されていたはずです。
城塞の中を街道が走りますが、当初はさすがに民家、宿場の類は無かったでしょう。
以下小和田先生の考証を転記。
「昭和48年度から数次にわたる発掘調査が行われ、後北条流築城法の指標とされる『障子堀』が発掘・復元されるなどして有名になっている。
後北条氏は西への押さえとして、箱根の天険を利用して、いくつかの支城を築いているがこの山中城もその一つである。
特に韮山城と鷹乃巣城(所在不明 諸説あり)の伝えの城として築かれた。
城の守将は天正十八年1590の時点では松田康長で、四千の軍勢で守ったが徳川家康、豊臣秀次のに攻められてあっけなく落城している。
この時の山中城寄せ手の総大将は羽柴秀次で、その軍勢19500であった。先陣は中村一氏、山内一豊、田中吉政、堀尾吉晴、一柳直末らであり、山中城の右翼からは堀秀政、丹羽長重、木村重高ら18300の軍勢が、左翼からは徳川家康が攻め込み『毛利家文書』の『山中城取巻人数書』にいう上方軍の総勢67800人という数は大体において信用してもよいのではないだろうか。
本図は山城としての山中城の面影を伝えているが、細部においては理解に苦しむところもある。
例えば本丸の北にある郭は北の丸ということになるだろうが本丸の西、何も書かれていない郭は北条丸になるのか西の丸(ふつう二の丸)になるのかわからない。
仮に無名郭のこととすれば、西の丸(外曲輪と書いてある部分)のさらに西側に西櫓が設けられた郭が存在しなければならない。
ところで、山中城は比較的遺構がよく残り、現状の略測図を作っても『諸国古城之図』よりは詳細なものができるほどである。
したがって江戸時代、図が作成される時点で綿密な調査が行われていれば、現在失われてしまった部分もかなり明らかになったのではないかと惜しまれる。
山中城は残された遺構と、戦国期の文献とが一致する城としても貴重である。中村一氏に従った渡辺勘兵衛の『渡辺水庵覚書』によって戦国期のの山中城の姿が鮮明に浮かび上がってくる。」






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