良きお天気につき長尺の材木と植木いじり用の素材の買い出しに向いましたが、その前、午前には未だかつて無かったような、ちょっとした法縁がありました。
先般亡くなったワンちゃんにつき、弔いが出来ていないということでそのお勤めを依頼されたのでした。
遺骨は当分の間、自宅に置いておきたいということで納骨はありません。要は本堂での読経のみということで。
拙寺御門徒さんではないお宅です。
ある時その依頼の電話があったのでしたが、私がそれを快諾したのは御門徒さんではなき方とお念仏を一所することはよき機縁であるということ。
そしてそれはワンちゃんがそのきっかけだったとしてもそもそもお念仏というものは「他力」、こちらから「亡き人」に向かって「さしあげる」という躰ではなく、亡き人(佛-ブツ)の願いを「承った」その御恩報謝の御礼なのですからね。
朝その御夫婦はワンちゃんの遺影・遺骨そしてお供物を持参。
本堂に上がっていただきました。
驚いたのはその服装の「黒」でした。きわめて礼服に近いものがありました。
最近は普段着での法縁参集が多くなっているわけですが(特に私は気にしませんが)今回のその正装には驚かされました。
まさに「家族を失った深い悲しみ」、その気持ちを察しました。
今、生花が絶えない場所といえば、親鸞さん銅像の前後、一處墓と生々流転の墓(ペット)ですからね。
強い家族の絆がより存在する場所と言ってもいいでしょう。
夜間NHK地方ニュースで高天神祭りの鉄砲隊イベントの様子を放映していました。
静岡の秋野氏が「一番前に」陣取っていたと聞いていましたので、画面の中観客の方を探しましたが確認はできませんでした。御年82歳といいますが、とてもそのように動き回ることなどはできません。
今期の「文芸牧之原」への記事も3編。
「動いて思考する・・・」それこそが健康の秘訣でしょうね。
扨、私は一昨日記した桜が丘池宮神社神主家(佐倉家)、その屋敷前の道こそが、遠州の相良―横須賀方面を結ぶオンリー1の古道(街道)だったと推測します。それがスンナリ腑に落ちるところ。
現在相良から比木の谷沿いを通って池新田に向かう県道239号相良-浜岡線は近代新設されたものです。
どちらかで記しましたが御前崎市の運営するプール(「ぷるる」)の東側は台地末端にあってその台地上を横断する道らしき道は無かったはず。
明治期にあの萩原家が隧道を作り、その後道路整備されて今のような切通し状となったのでした。
また「池新田」なる呼称は戦国期にはないでしょうし。
というわけで相良-横須賀への古道は落居辺りから尾根伝いに進み比木の谷に下りて池宮橋①図赤い矢印を西に進めば池宮神社という感じか。
そこで拡大図②を。
その池宮橋を西に進んで桜ケ池に向かう人は少数派とは思いますが、②の赤い円に桜ケ池方向に進む道が二つに分岐しているところがわかります。
現状南側の道が整備されたもので通常はそちらを通過するのがスジですね。古い時代はもっと畦道に近かったと思いますが。
ただし以前から違和感があったのはその南側の道は急に北に湾曲して池宮へ向かうところ(②円内)です。
ということで旧来の道は北側だったのでは・・・と感じたのでした。池宮神社からの東に行くにも急に南側に折れることも違和感。
まさに桜ケ池前の道を南にいかず直進東進すればスンナリと佐倉家に。
古くからの土地の権威者本家の前の道が往来道であったことに不思議はありませんね。
もう一つ気になる点は②の円内の赤★と青★のライン。
赤★は現在源五郎の首取り坂の碑が建つ地になりますが、その奥側はパッと見て堀切。そして青★が佐倉家ですのでもしかして佐倉家は城塞化した屋敷であり、この源五郎の碑のある場所から北へ数百メートル、これを堀底大手道であると解釈。
それを通過して屋敷前に突き当たって左方向桜ケ池へ。
そして横須賀方面へ・・・など想像した次第。
佐倉家は神官家ですので徳川方にも武田方にもあらず。
ただ当時「桜ケ池は諏訪湖と繋がっている」などの伝承があって、高天神城籠城の信州系武田勢ともなればこの桜ケ池池宮を詣で(故郷を懐かしみながら)帰城(高天神)したいという気になったのかも。
普通に考えて横須賀城を探った武田兵が高天神城に帰るのにこちらまで遠回りすることは考えられませんがね。
またその逆(相良→高天神城)の場合なら渥美源吾郎はそれを読んで待伏せしたということも考えられます。
それでも相良から高天神への道・・・普通はここは通らない?
今とは道の事情はちがいますので何とも言えませんが。










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