横須賀城以前の砦撰要寺 大須賀康高は阿弥陀仏前で

寒さもあそこまで風が吹きまくると外仕事に出る気も起らず。

作業予定はほとんど日のあたらない場所ですから「こんな日にすることはない」と自身納得して一日庫裏に籠っていました。

かといって庫裏の中はさほどの温かさを感じず。

暖房器具はありますが、足先がどうも冷たい。

やはりそれも齢のせいか。

 

庫裏に籠ってやることといえば、やはり本たちをペラペラっと。

昨日は拙ブログでは横須賀城についてちらっと記しましたのでその裏の山撰要寺(またはこちら こちらも)についてこちらも久々に・・・その名は以前も記した通り「撰択本願」と「往生要集」からですね。よって浄土宗のお寺。

私はそのお寺については時折気が向けば墓域の散策をしていますが、そのお墓たちについて詳細に突っ込んで纏めている書籍があります。

要はこのお寺限定の墓参バイブルのようなものでしょうか。

その書籍名が「撰要寺墓塔群」(斎藤考古学研究所)です。

かなり以前に古書店で求めたものですが、内容は墓好きにはもってこいの懇切丁寧な案内書。今も古書店にて入手可能な逸品です。

 

奈良あたりの古刹といえるようなお寺ではありませんので境内墓域のお墓の古株といえばせいぜい天正期あたりからですが。

まぁ江戸期はそれなりに時間がありますのでその形式の微妙な推移等この書で知ることができます。

 

そちらの冒頭に寺の概略が記してありますのでそちらから少々抜粋。

 

「この横須賀城の初代城主大須賀康高は、徳川家康の命を受け武田勢を攻略するにあたり、はじめ撰要寺のある丘に布陣したといわれる。のち横須賀城に居城するに及び、天正九年(1581)には岌屋春阿和尚を請じて撰要寺を創建させたという。

『横須賀根元代明鑑』は、同町浄土真宗善福寺二代の住持釋祐念師の筆になるといわれ、史料として信憑性を持つものであるが、同書には、私伝撰要寺は往古は、高天神の麓に有之撰要寺ケ谷と申伝旧跡有之由、五郎左衛門は、殿横須賀の城主に被仰付節被為得上意建立の寺也。当寺領五十石五郎左衛門殿寄付 十石出羽守殿右春御朱印也。

横須賀城初代の城主大須賀康高は天正十六年六月二十三日に死去した。『横須賀根元代明鑑』には

天正十六子年六月二十三日 大須賀五郎左衛門殿撰要寺へ参詣、本堂如来前に而逝去也。

そして撰要寺に埋葬された。

二代忠政も慶長十二(1607)九月十一日に逝去し康高の墓に隣して葬られた。

 

忠政は、榊原式部大輔の二男で大須賀家の家督を相続し、出羽守となった。

『横須賀根元代明鑑』に慶長十二年出羽守殿病気に依り為養生上京、有馬湯汐之湯同年九月十一日伏見にて逝去し給う。

横須賀撰要寺に葬送。号華馨院殿前羽州巌叓安大居士と是也。

~十二代本多利長が、正保二(1645)年城主になるに及び、父・祖父等の墓標を(撰要寺に)三河岡崎から海路運んだ~」

 

 

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コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (木曜日, 15 1月 2026 09:40)

    撰要寺墓所は榊原一族の眠る照久寺(現宝台院別院)よりも数段上回り近隣では屈指と思います。著書「撰要寺墓塔群」の存在を知らず寛政重修諸家譜などで調べて訪れましたが、小笠原一族など10数名しか確認できませんでした。 亦とずれたいと思います。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 15 1月 2026 17:59)

    ありがとうございます。
    墓域は台地の縁ということもあって風をまともに受けて樹木や土壌の崩落が少なからず散見できます。
    当然に無縁墓系も多数あるでしょうしこれからの維持管理がポイントになるでしょうね。