別所城縄張り東栄中学南端 独りで死なないで~

午前の法要のお斎に招かれていたため、14時からの世話人会にはギリセーフ

お世話になっている方の子息が今回の市議会議員選挙に立候補していましたが「おかげさまで~」と御礼の電話が夕刻にありました。

何もしていませんが・・・というのは定員と同数の立候補者だったようで選挙戦は行われなかったということ。スンナリ当確ということでそれはそれでよろしいことですが、その定員割れ寸前を見越して立候補届を出したのでは・・・と思われる方が数名いらしたという話が別の方向から・・・「タダ貰い」のお給金に腹が立つという方がいらっしゃいましたが、一市民の私が思うことはやはり「議員を減らせば・・・? 」ですよね。

また、相良から若いのが立候補しなくちゃ・・・という意見も。

定年退職後の名だけ立候補の件、危惧する声多数。

 

世話人会の内容は来月の報恩講と来年のバス遠足、そして世話人さんからの提案「お寺で、小さな、手作り家族葬」の案内でした。

拙寺会館でお悔みお弔いの儀式を修めるうえ、そのお手伝いを皆さんでやっていこうというもの。

最近の家族葬ブームにもう一つ一石を投じようとの策です。

まぁ提案はするもののどう選択するかは各々自由というのが基本です。そして自身の後生一大事については「予め決めておく」ことがベスト。そして「お独りで亡くならない」ことを私は声を大にしました。「独りで死ぬ」ことはごく当たり前のことですが、私の急変のその時、対応できる人を近くに・・・という意味です。

 

最近ではそういったシチュエーション(独り暮らし)は致し方な

いことで現代では当たり前の如くあることですが、お独りで体調急変するなどして亡くなった場合⓵発見が遅れる②事件性の有無の捜査(刑事課―検視の段取り)が始まる③そのお迎え先は警察署の安置室、あるいは病院で司法解剖後の安置室④故人の「人格尊厳」が棄損される・・・が理由となります。

 

よって(お独り様も悪くないのですが)、近隣住民との親しきコミュニケーションの継続は勿論のこと縁者と定期交信(消息チェック)は必須。「独りで死なないで~」とつい。とにかく119を呼ぶタイミングが欲しいのです。

人という者「自身のその時」はなかなか気づかないものです。

というかいつも棚の上に置きっぱなし。

 

そうであったとしても・・・死んじまったらそれっきり、人格どうのなどどうでもよろしい・・・」という割り切り方もありますがね。しかしそれには「困った~」という人は必ず出ます。

少しくらいのそれには私もお付き合いする覚悟はありますが・・・

 

昨晩はNHK「サラームの戦場」を視聴しました。

たくさんの人たちの亡くなった現場や遺体置き場、そしてそちらでの縁者の対面のシーンを見せつけられてますますこの平和の地にいる私にも怒りと恨みの心が。

子供の声「人生に美しいものなんて無いよ」の言葉にショックを受けました。

私の周囲にはあそこまで絶望的な悲しみや怒りはありませんしそうは体現することはありませんからね。

爆撃されたばかりの避難所にて亡くなった家族にすがって狂気の声をあげる人・・・、私は悲しきかな、それを止めさせる術を知りません。

ただこのように記すだけで、申し訳なく感じています。

この取材源はNHKガザ事務所のカメラマン。

こういった事実を包み隠さず放送するのがメディアの真なる姿であることを再認識しました。

 

事実を隠し、都合の悪いことを表にしたくないという反対勢力(イスラエル)、またはそれに同調する人からすれば、ミサイルをぶち込みたくなるような放送なのでしょうが、ここは日本です。

私たちはただ事実が知りたいだけ。

そして日に日にイスラエルという国から心が離れていく。

既にマイナスの領域です。

 

扨、昨日の東栄中学のグラウンドこそ別所城でした(こちら)。

詳らかではありませんが、「別所」とは設楽城とは「別の~」の意でしょうね。

そしてこちらが地域の中心になっていったということか。

「別所街道」などの名称はその名残でしょうね。

 

城郭大系より

「天文年間に長篠菅沼氏の臣、伊藤左京亮貞久によって構えられたが、嗣子貞次は天正三年(1575) 五月、長篠の合戦に際し武田方に味方して甲斐に落ち、以後は廃城になったと思われる。

城址は振草川(大千瀬川)に架かる戦橋の真上にあり、東栄町立東栄中学校の辺りは、この城の別館址であろうか。

南は断崖で本郭に土塁を巡らし、西側には堀も所見できるが、規模からは戦国期の小土豪の城である。

 

台地上を開削し南面してあるのが東栄中学ですが、その最南端の藪にその遺構を見ることができます。①の看板のあるフェンスの向こう②③です。残存遺構は多くはありませんが、町のこの城への気持ちが感じられます。案内板と各所に掲示板が設けられていました。

先日記した亀ケ城の如く本丸虎口であろう場所に石積みが見られました。

城址は東栄町役場の先を左に折れて墓地を右手に上がります。そしてスグ、右に上がる東栄中学への道と徒歩でいく直進の道に分かれます。学校のグラウンド経由を避けたい方はその道をどうぞ。