まずはノーベル平和賞、ベネズエラの平和活動家が受賞。
グレタさんは来年以降かな・・・とにかく、民間で地道に動いている方っていうのがイイ。
横浜の「奥の細道」氏が風邪のためダウンしたといいます。
朝方の空気は大分冷たさを感じるようになりました。にもかかわらず窓を開けっ放しにして寝てしまったとのこと。
油断ですね。
私もそれで、しょっちゅうヤラれていますので彼の件を論うなどとんでもない話。
ついうっかりと以前やらかしたことと同じ轍を踏んでしまい、その失敗に毎度の如く地団太を踏むわけですが、それを一言で「ミスを犯す」ということ。
元来人間の性分なのでしょうね。
自分というものの性質を理解しようと、あるいはコントロールしていこうといつもその件頭に入れて動くことが肝要ですね。
信じていないので「上出来」成果を頂いた時は一層満足します。
よって私は「座右の銘」と言うのでしょうか今の行動規範と言いましょうかそれは「自分を信じるな」ですね。
その件どちらかに記していたと思いますが。
どなたか偉人の名言を採用するでもなく私の勝手な思いこみの類でしょうが。
まぁ偉人と私はまったく違う「生き物」です。
彼らと同じような、皆さんがお好きそうな銘の、ありがちな「努力」だとか「勤勉」などの共通がありえないですからね。
「ミスを犯す」・・・そのタイミングといえば慢心でしょう。
「しめた~」「うまくやりすごした~」「勝った~」「これで安心できる」と思った瞬間です。
要は我を忘れて調子にのり、またのりつつある時です。
それらシチュエーションは事象を瞬間的に判断し行動しなくてはならないようなスポーツの現場に見ることができますね。
例えば・・・2アウト満塁のサヨナラの場面、投手が渾身の力で投げたボールがバッターのバットをへし折って、ぼてぼてのピッチャーゴロとなった時・・・投手の頭の中は一瞬間「やった~」「最高!!」と踊りたくなるような嬉しさが充満するに決まっています。このうえない「今」の成果を得たという感じ。
攻撃側からすれば「万事休す」の溜息が洩れるところです。
ところが「してやったり」の心が溢れたのかその投手はそのピッチャーゴロの補給をファンブルしてしまいます。
慌てながらもボールを再補給して一塁に走る打者走者を一塁ベースでフォースアウトにすれば(バッターランナーが他の走者に比べてダッシュが遅延するのは必定)良かったのでしょうが何故か目の前のホームベースに送球、尚それが暴投となってサヨナラ負けという結果。
そのシーンは昨日のLAとフィリーズ戦(LAのサヨナラ勝ち)の最後の一コマでした。
そういった結果とはなりましたが、実は代走で入った三塁ランナーの走塁は全速力ではありませんでしたし、そもそも本塁ベースを前にしてスライディングがありませんでした。
ましてやベースを踏み損ねてあらためて踏みなおしに戻った始末。
それには本塁には投げてこないだろうの思い込みがあったからに違いありません。暴投がなければ頭を抱えていたのは三塁ランナーとLA側だったのです。
「思い込み」はやはり自分のことでもありますね。メジャーリーガーも私も同じ。
どちらの選手たちも野球世界では超一流です。
それらの選手たちであってもイザという時に、ミスをやらかすのです。それがスポーツ観戦の醍醐味ではありますが、私たちの日常であってもそのようなポカは珍しいことではありませんね。
その世界でうまくいった場合それまでのネガティブ行程を顧みず「結果オーライ」なる語で締めることがありますが、それが慢性化し反省に至らないなどはありえないことです。
昨日の試合で言えばドジャースはたまたま、綱渡り的勝利だったのですから。
「自分を信じるな」は特に私自身が無茶をやる時は当然の事。
年に何度かクライミングロープとハーネスで高所に上がることがありますが、私の環境とは段違いの高所でその道のプロが先般
崖からのグランドフォールで亡くなりました。
それは「ロープの長さ」の勘違いからだったといいます。
おそらく寸足らずのロープに気づかず下降器からロープが抜けてしまったのでしょうが、普通では信じられないようなイージーミスです。
クライミング界のトップにいる人でさえ、その手のミスをやらかすのですから。
その言葉「自分を信じるな」は自分が生きるため、また他人を傷つけないように生きる術なのかも知れません。
扨、昨日の山の中、「信玄塚」を。
室町期より遡りそうな石塔であろうことは私も同意します。
四仏の彫りの磨滅具合もありますが、隅飾りの立ち姿の様も・・・
しかし記述にある「江戸期に供養塔として・・・」の件はそれと矛盾を感じます。
後付けに神社を創建して墓石を神格化しているのにも違和感がありますね。
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