昨日のニュースで目に留まったそのタイトルが・・・
「大正期 遠州の将棋名士200人 牧之原で『番付』発見」
というもの。
「遠江将棋名士鑑」と題された200人の氏名が並ぶ大正期の印刷物になりますが相良の「将棋好き」の皆さんの名前も多く登場していました。
その時代にのんびりした雰囲気と余裕を感じます。
史料館の長谷川氏が入手したもので彼のアップ写真付きでした。お忙しい人です。あらためて。
今一つ、ニュースを見て驚かされたのは、飯田市南信濃から。
その地は昨日の拙ブログで記した辺りからもそれほど遠くない地。そちらで連絡が途絶えている方がいるとの報道でした。
昨日記したの県道10号を右に46号阿南根羽線を東に向かい天竜川沿い伊奈郡天龍村方向。
私ども静岡人からは青崩れ峠の北と言った方が早いかも知れません。直線距離では当地からさほどの遠隔地を感じませんか・・・
寂し気な「山の中」を一人ポツンと歩いていると心細くなるのはいつものことですが、何せ「道の奥―みちのく」感と雄大な山並み、緑に圧倒されて畏怖や不安に襲われるものです。
特に森の中といえば大型の黒い獣からの恐怖もありますからね。
その方は東京都の63歳の男性とのことですが「長野へ行く」と縁者に言い残して消息を絶ったと。
私も奥方に「〇〇に行く・・・」と言っては「ふっ」とどちらかに出かける事は多々ありますので「それってわたしのこと?」とも思ったほどです。
捜索の手がかりは「趣味がお城巡り」とのこと。警察でその方の車が上記山中で発見したとのことでした。
無数の山城が存在する中、よく見つけたものだと感心させられましたが、さすがに他にも何か手がかりがあったのでしょうね。
携帯電話の電波の状況はあまり良くないでしょうし何とも言えませんが。
ところが車は見つかってもご当人は未だ発見されていないと。
恐ろしい事です。
山城探索の際私は数えきれないくらい「七転八倒」の痛烈を味わっていますが、そこでの各リスクは重々知っているつもり。
その車は「八重河内城」という山城といいます。
そちらは城郭大系の「その他」の部にこうあります。
「八重河内城 比高230mの峰上にある。南・北は岸壁、三段の平坦地と二か所の堀がある」のみ。
どちらかの方の記録によればその主郭のある峰上に上がるに崖状含めてかなりの急坂を上がる険しい尾根と。二重堀切については武田方の形跡かと推測できますね。
こちらにもいつかは「奥の墓道」氏と行ってみたいと思ったほどです。
その方は余程のお城通の方とお見受けします。
是非とも無事に帰還していただきたいものです。
扨、私のあの時(昨日)の奥三河から信州入りは「ここまで」と決めていた場所があります。これより先はいずれまた次のお楽しみということで。
その地が信玄塚のある地(場所はこちら)。
このキレイに整備された道あってこその到達。以外「絶対にムリ」を思わせます。
その存在はこの地が信玄と少なからず何かの関りがあったことを思いますが、それは大いに連想することはできますね。
途中には信玄坑がありました。
やはり先般記した福田寺の信玄もそうですが、何しろ甲州軍団の他国侵入は大きな難題があったことがよくわかります。
大軍を率いてこの連なる山々を抜け「海に出たい・・・」気持ちはわかりますが、当時の山道など獣道同等のはず。
進軍も退却もそれでは命がけになることは必定ですね。
甲州方にとっては大きなハンディキャップとしてあったわけで、上洛が夢に終わることは立地からして火を見るより明らかの感あります。
戦線が拡大するだけで兵糧含めて兵の消耗は日々著しく進みます。あのインパール作戦の惨劇含めてそれらを強く思いました。
後者は前者の「勇猛果敢」の精神論のみを強調したような短絡無謀の作戦。あの戦争の中で失策数ある中「大失敗」の例とも思えますがそれへの一番の反省点は身近なところにある「歴史」を学ばなかったことでしょうか。
歴史を学ぶとは「人」「私」を学ぶこと。
各、自分自身を映し出してそれを俯瞰してみる。
そしてそれに次のステップ、指針を描くことができます。
先般は今の歴史を学ばない政治の方向性について記しましたが
それは「反省」というものがないということ。
自己を省みない輩は間違いなく転びます。転び方にもいろいろありますがね・・・









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