東京での親身さ 推定樹齢800年の大杉  設楽城② 

午前は法要とご自宅お内仏の閉扉式。

施主が懸案だったその「自宅の処分」の件、進んでいると。

逝去された父母の家になります。

意外と早く話がまとまって驚かされたのでしたが、初めて伺ったその自宅はなかなかのものでした。

国道150号線より北であの根上がり松にほど近い場所。

 

依頼した不動産屋からは榛原静波以南(あまりさわりたくない)、要は相良の物件ということで渋い顔をされたそうですが内部の品物の処理含めて「殆ど二束三文」ながら引き取ってもらうことになったそう。

不動産業者は「リフォームして賃貸」としての購入だそうですが、そういった思惑あっての投資、この相良にもまだ生きていたことに感動しました。

しかし内部は高級感溢れる構造でちょっとした別荘、セカンドハウス、企業の研修等の利用まで想定できそう。

 

しかし余計なことですがこの地区のリフォーム等建設工事業者はほとんど出払っていて、スグの対応は難しいのでは・・・

先日の竜巻で吉田町のNTTドコモの駐車場でただ一人、亡くなった方がいらしたのですが、その店の駐車場に停めていた方の車も大層な被害を受けたそうで、修理費見積250万円で現在代車を出してもらっているそう。そしてその車が戻るまで「半年かかる」とのこと。

車屋さんとのおつきあいのこともあるのでしょうがその件、私なら「ちょっと待って~」と再考しますがね。

まぁ今新車を購入するにしろ半年~1年待ちは当たり前のよう。

大工さんたちも今、竜巻被害地域への集中により他所の仕事には回ってこないでしょう。

ちなみに「多少屋根が傷んだ・・・」というご門徒さんは左官屋さんですが「自分で修理しちゃった」でした。

 

扨、昨日に続いて設楽城。

この設楽城に関して私はこの東栄町をうろついた時、ある店の方に「設楽城ってどちら」と聞いたことがあります。

ちなみに私は目的地近くにいるときなど「スマホの地図より人間」と一瞬なりとも「人との交流」に重きを置きます。

そういったことによって断片的とはいえ、地域の「人間」というものを感じとれるような気がして・・・

先日は東京駅の若いお巡りさん4人の中に道を聞こうと飛び込んだのでしたが、どちらも「表情が硬い、硬すぎる・・・」の感。

職務上のこともあるのでしょうが、法、取り締まり、警戒はわかりますがそれだけでなく庶民・人間との関わりをもっと学んで頂きたいと思ったところ。

人間がAIを真似てどうするの・・・

他に急ぎ歩きの通行人を呼びとめて伺った時は「あっち~」と一言のみでした。「今時スマホでしらべろよぉ」でしょうか。トーキョーはそんな場所なのか・・・

 

ただ一人地下街で声をかけた人はまったく違いました。

従業員通用口からたまたま出て来た方でしたが、親切そうな表情でほっとさせられました。

片言の日本語でした。

日本で就労しているアジア系の方でしょうが一旦別れた後、まごまごしている我々の後から再び声をかけて「ソッチデハアリマセン コッチデスヨ~」。

ちょっぴり嬉しかったですね。

日本人の劣化はトーキョーでたくさん見ることができました。

 

その「設楽城は~」の件、とんだチンプンカンプンな返答を受けてしまったわけですが、その方は「設楽城」ではなく「設楽町」への途のことを仰っていたのでした。

そうです、そもそも「天守閣のない城」など地元の人であってもまるで興味なしの方たちがあるものです。その件「いつものこと」だと承知していますが。

 

そもそもその設楽城があるのは北設楽郡といえど東栄町になりますし。

同じ設楽を名のる町があり、それよりまた違う地に例の武田勝頼敗走でお馴染み「長篠設楽原」、設楽氏周辺の城郭がありますからね。

設楽発祥地各説ありますが、北設楽から新城と広範囲に古く長い時間をかけて存在した土豪です(保元物語に「三河 志多良」)。

 

以下城郭大系より。

「幅員30mほどの振草川(大千瀬川)が西から東に曲流する所に向かって、本郷盆地に突き出た比高約30mの尾根を連郭として構えられた。」

「昭和40年に県の史跡指定を受けたが、遺構から考察した限りにおいては規模も大きなものではなく、尾根を部分的に削平し、本郭と二の曲輪、堀切を設けた程度の城であり、居館はこの城の西側に根古屋形式をとっていたと思われる。

戦国期には伊藤氏の居城するところとなったが、堀切の大きさからすれば、この伊藤氏の代において現況のような形になったと考えられ、平安末期にこれほどの規模の堀切を設けたわけではなかろうと思われる。」

 

樹齢800年なる杉の大木と対峙、何故か頭が下がる思い。

AIなんぞより自然(ヒト含む)との対話、感覚というものが大事だと思う昨今です。(場所はこちら)。