息子の住まいを急襲するとの指令が奥方よりありました。
それは境内仕作業をして「汚くなるな」ということ。
昼前に浜松に向い、デパ地下で彼ら所望の食料を仕入れて彼らの住処へ。運転手です。
本来の目的はお祝いに頂いた小さな靴たちやら紙おむつを届けるためです。
まだまだ先の事になるのでしょうが、それを足につけて歩き回る姿にハラハラさせられるまで成長できれば御の字です。
小さな赤子は息子らのエアコンがかなり効いた部屋にいるわけですが、医師から「暑いと突然死がある」と脅かされたからといいます。
「ホントかよ~」と思わず奥方と目を見合わせてしまいましたが、せめて「冷風が直接顔にかからないようにせよ」と注進。
極端に考えすぎの感。
もう一つ赤子ケアの私の知らなかったこと。それは新鮮なことでした。
それが赤子を寝かしつけるための「おくるみ巻き」です。
以前はその考えなどは無かったことで、数年前くらいに新生児の寝かせ方のベストな方法として「当然」となっているとのこと。
初めてそれを見た時は息子がふざけてやっているのかと思ったくらい。
私のどこかの記憶、中央アジア辺りの国の赤ん坊の如く、顔だけ出した布にぐるぐる巻きになったような様。
この現代の常識とは、赤子の睡眠=親たちの安心・・・が大いに期待できるといいます。
要はつい最近までいた母親のお腹の中にいるような環境の再現による安心感と「モロー反射」という赤子特有の反応を抑えるもの。
折角寝ている赤子が起きてしまう要因を防止するためといいます。
先日息子らに渡したキイロシロの産んだネコが同居していますがそれをイジルくらいが私のできること。
私が「一番のリスク」と奥方から名指しされていることもありますが、あの小さき生き物、やらかしそうで怖くて触れない・・・
扨、昨日の信光寺。
その名を見て別の「信光」をも連想しつつお参りに入ったわけですが、その「信光」とは松平三代の松平信光です。「松平」発祥の地でもありますからね。
真宗大谷派で拙寺と同じ教区ですので、私は教区発行の寺院名簿を捲りました。
すると何年も前からの号にもこのお寺の掲載はなし。
無住職寺となっていたということですが、昨年新住職が決まって入寺しているとのこと。
一旦無住寺院化してしまったという詳細経緯は不明ですが何しろ新しい歴史が始まったということは目出度い。
新しい歴史、というのはこのお寺の歴史は結構に古いものがあります。
もとは教信寺なる幸田にあった寺が応仁期1469年にこちら松平へ移ったあと1481年に松平信光の子が寺に入って父信光の菩提を弔うため信光寺に改号したといいます。
境内を散策。本堂に上がれるようになっていましたのでまずはご挨拶。たくさんの御門徒さんに支えられている古刹を感じました。
あの時、本堂が開いていたということはどなたかがいらっしゃったのでしょうね。
そしてちらっと視野に入っていた本堂前の宝篋印塔の残欠をまじまじと拝見。
住職がいらっしゃらない時期が長かったせいか、タダ者の墓石とは思えないこちらの小型仏塔(宝篋印塔)の残欠は、無意味に積み重ねられていました。
うまいこと他のパーツを探し出して元の形状に近い復元を試みていただきたいものです。
近くに自然崩壊したであろう石片が散らばっていましたが宝篋印塔の笠の数からして少なくとも4~5基程度はあったでしょうね。
旧本堂の下り棟の瓦でしょうか、家紋の立葵がその出自(本多系)を示唆しているようにも。
同じ松平郷、孫根城の手前にある等順寺と同様です。そちらは本多さんでした。
ちなみに信光寺の新住職は本田さん。
三河の雰囲気が漂ってきます。
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