小牧長久手前後から大給城の様相激変 土→石の塁

まるで梅雨時の如くの天気です。

当地相良は前夜、主に静岡東部に警報級の豪雨を降らせた雨雲の通過はなく、朝7時頃になってポツポツときた程度。

よって終日ドカ雨はナシ。

曇天は致し方ないものの「曇り時々ポツポツ」程度でお許しいただいたようです。西国は酷いものでした。
まぁ心中、私の持論「国道1号線理論」の裏付け・・・などと勝手に 頷いている次第。

 

西日本から日本列島を東進する低気圧等、静岡県内に雨を降らす南海上からの雲は県内国道一号線沿いに進み、南遠州の雨は僅少・・・というもの。

南から低気圧に向って湿潤な空気が国道1号線北側に連なる山に当たり雨雲へエネルギーを供給するというものです。

 

父と祖父が言っていましたが戦時中B29は「相良の空を通過するだけ・・護衛のグラマンが帰還の途中に機銃掃射していったくらい・・・」と。

良き縁も「通過していくだけ」のようだとのボヤキの声も多々ある地ですが、災害災難が相良を飛び越えていき、何となく無事でいられるのはありがたいことなのかも知れません。

 

おかげさまで、故人初盆に曾孫7人(最年少2か月の赤子)が集結した法縁終了後の墓参は傘も不要、スンナリと勤修できました。

 

何ごとも「家族だけで・・・」流行りとなっている今、夏休み&お盆休みのタイミングは絶妙だったのでしょうね。

賑やかな本堂内には、やはりテンションがあがります。

子供達に太鼓を叩いてもらい法縁のストレス?を晴らしてもらいました。

 

扨、大給城、昨日の続き。

城郭大系に「三河に類例のない石塁」とありました。

同形の大きさも同じ石を積む「重ね積み」ともいうそうですが、この石を見て私は登屋ヶ根城北のフロノ下猪垣順因寺山中城舞木口登城口、長沢岩略寺の谷筋で見た石塊を思い出しました。

三河でも西端にあたるこちら大給城に三河東端にある材を集めたか・・・などとの発想ですがより近き場所にこの手の採石場があったのか・・・いろいろ。

 

野面積み工法より特殊技能は不要、平たい石をただ積むだけの如くの石垣です。

いわゆる今風「コスパ、タイパ」だったのかも。

 

「時間制限」アリの喫緊課題について考えると三河東端山中城は東海道(今川)からの侵攻への防御というテーマがありましたが、こちら大給城の役回りとしては小牧長久手戦以降の対秀吉の肝要。

秀吉軍の三河侵攻をくいとめるためこの城の立地は重大です。

突貫工事が行われ戦国前期の土の城を石積みによって防御態勢を強固に整えたいという意図があったのでしょうね。

縄張り各所に天然の自然巨石を利しているところも面白い。

 

本丸の突端の大きな石上からは尾張方面が一望。

秀吉が来るのはこちらからですからね。

ここで進軍を眼下に確認できたら狼煙台にて、情報を拡散。

援軍、籠城を促すという算段でしょう。