案外と相良も雨が降りました。
静岡市内では「大風(竜巻?)の発生で車が転んだ!」のニュースがありましたがこちらはそれを感じさせない穏やかな雨でした。
ただし寺標近くの排水桝の詰まりが気なるところです。
まぁこちらは蓋を外しての清掃ができますのでカンタン。
雨が上がったら解消させることにします。
扨、嫁に出た叔母の面倒を私が看ることになったのは成り行きではありますが、私が当初こちらに入った頃からその雰囲気は叔母の口から出ていました。
年上の引きあげげ軍人の後妻として嫁入りし先妻の子がありますが、私はその人とは面識なし。夫の実家とも絶縁しての一人暮らしでした。
叔母の件いろいろ、相続権者の主張というものがあったとすれば面倒くさいことになるとは思ったものの、「その時はタノム」でしたし父からも「やってやれ」でした。
叔母は夫の逝去による年金で暮らしていましたが、叔母の家が借家であったことからその家の取り壊しについて地主と返還交渉となったことは昨日のことのように覚えています。
更地にして返すことは契約内のことですから仕方なし。
地主には「父の妹ということもあって交渉しているがそもそも叔母は叔母。相続とは無関係であるので私に支払い義務はなし。何時でも交渉を退きますよ~。
ただし叔母の親戚縁者は国内外に多数いて地主さんはその解消にきっと苦労するでしょうね~」と半脅しで話を進め、解体費用の半額を出してもらうことで手を打ちました。地主は都内在住で当地とは関係ない人でしたし・・・
最初から工事費全額の支払いは覚悟していましたが、どちらにしろその半額の支払いの出何処も叔母の財布でしたからね。
叔母のいろいろに携わったことで有益だったものは叔母の夫が拙寺から持ちだした古銭や刀剣を回収できたこと。
叔父は大陸から引き揚げてから仕事が無く、骨董屋稼業を。
いわゆる「窃盗・強盗・骨董」の類の仕事だった感。
頻繁に寺に来て小銭と引き換えに品物を持って行った姿は私も覚えています。
「子供はあっちにいっていろ~」とも。その記憶は鮮明です。
拙寺から預かるといって自らのお宝としていた備前長船など叔父の死後一旦はその実家の妹が持ち出して所在不明になっていました。
当時の叔母の頭はハッキリしていてかなり義妹を脅したのちそれを返却させていました。拵えは叔母が売却してしまいましたが刀が残っただけでも有難い。まぁ私が出入りしたことによっての成果の一番はこの刀が回収できたこと。
叔父は皇宮警察あがりの軍人で、そのような勉強をしたはずがないのにイキナリ軍医として大陸に。それには当時の軍というものの無茶苦茶・出鱈目を思います。
私はそのいろいろ、父・祖父からの口伝から叔父のイメージは勝新太郎の「兵隊やくざ」でしたね。そんなのに惚れてくっついた叔母にも呆れましたが。
その妻である叔母のいつもの言葉が「私は夫の(実家の)墓には入らない」「骨は実家(拙寺)に」でした。
ということは「他のいろいろタノム」ということ。
よってこれまでの叔母とのおつきあいを継続してきたわけです。
事が起これば機械的に連絡があって逐次呼び出されました。「(暴走気味の老人を)何とかしろ」的なものですね。菊川警察署からも2度ほど・・・
その「夫の実家の墓に入らない」「死んでまで夫と一緒は御免」なる世の妻たちの宣誓、遺言の件よく耳にするようになりました。そのために新たに墓碑・埋葬場所を設ける方もいらっしゃいます。
叔母も「冗談じゃあない」とよく口にしていましたが昔の考え方とは大分違ってきましたね。
それでいて叔母の最期の姓は夫と同じ。
その件どうでも良かったのでしょうが「死後離婚」という、やはり今、流行りだした縁切りの手段もあるのです。
夫婦別姓の件もありますが死んだらまた「墓をどうする」などの面倒くさいことに子供達は悩まされることになるのでしょうね。
ちなみに叔母は子供不在でしたので、こうなるほかはありませんでしたが私を息子として、奥方を娘として私の息子を孫として思っていたのかも知れません。
昨日は皆で叔母が死ぬ間際まで話題にしていた鰻をお昼に頂きました。
縁者の死後の後始末、今回もやるべきこと多々ありますがそれらが終わればいよいよ私の始末。
その前に奥方は「母がいる」と。
扨、画像は先日記した柳生古城の続きになります。
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