朝から寺務仕事。
外は曇天で心中気持ちもイマイチ盛り上がらず、夕刻に息子が赴く通夜式の準備等もあって庫裏に籠りっきりでした。
前日の枕経にはピンチヒッターとして私がお邪魔していましたので概略情報を到着した息子に伝達。
御前崎を終の棲家と決めたご夫婦~子供達から離れて三河から来られたといいます~の奥さんが故人でした。
自宅が御前崎でありながら吉田町の葬儀場の選択は東名吉田インターから最寄りであるということからでしょうね。
南遠州の海と空を気に入られての転居だったのかも知れません。
老後は夫婦で「好きに生きるのだ」ということからの決断だったのでしょうが、それが全うできることは如何にも素晴らしいことです。
但し次のステップ、男の独り余生のことを考えてしまいます。
お寂しいことです。子らの住まいとも遠隔地ですからね。
扨、昨日は蔦重マップを転記させていただきましたが、それらピックアップされた名所のうち私が訪れたことのある唯一の場所が佐野善左衛門政言の墓がある徳本寺です。
大元は三河にあった真宗寺院が転説。
私は相良の皆さんがよく行かれているという田沼意次の墓には未だお参りした事がありませんので、当方奥方はその件以前から「とんでもないくわせ者坊主だ」と嗤っています。
それはタイミングです。
私が佐野善左衛門の墓をお参りしたのは、たまたま当時の東京浅草本願寺の門前、お向かいのお寺で御本尊が阿弥陀さんというお気軽さからです。
また「意次の墓」には皆さんだれもが顔を出していて「今さら」の感もあり、方向的にも逆で少しばかり遠めなのですね。
それに対しこちらは私にとって地の利のいい場所でした(夜間の学校―専修学院―の真ん前)。
墓は「世直し大明神」と囃されただけに墓石はカタチを保っていないようで。
きっと縁起担ぎの輩に削られたのでしょう。
また意知贔屓もいたはずで、その反発からの物理的暴力も加えられたのかも知れません。
私かあの時感じた事は「佐野クンは真宗門徒だったんだぁ」。
その短慮が無かったとしたら・・・
緩やかな歴史変遷、近代への移行があったということ、どちらの歴史家が指摘するところですね。
先日放送された「英雄たちの選択 田沼意次の大ピンチ!」では番組進行の磯田氏が「明治維新、薩長の出る幕などはなかったかも・・・」には大いに頷けます。
「たられば」を思うのは詮無きことですがね。
となると今がもっともっとイイ時代になっていたかも・・・そして戦争なんて無かったかも・・・等々思います。
最後の画像がお向かいの「東本願寺」。その名称がそれというのも紛らわしいことですが。
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