柳生藩家老屋敷 検証一橋様への礼状の一橋とは 

昨日午前から昼過ぎまでは曇天ながら雨は無し。

施主はありがたいことだと。

平日ながら法事がありました。

法要後施主の過去に味わった苦痛いろいろ。

特に衝撃的だったのは貧乏で医師への支払いに品物で支払ったことがあったとのこと。お見舞いで戴いたお菓子を菓子屋に返品していくらかの現金を手にしようとも考えたこともあったと。

そして「風呂には入れた」・・・その理由は昔のメーター(そう仰っていました)というか当時のそちらの家の水道はぽたぽたレベルで蛇口を少~しだけひねればメーターが回らず課金されることがなかったといいます。溜めてから使用するという作戦と。

まぁ水道泥棒ということでしょうが一昔前は何後もアバウトでしたからね。そこまで困窮した経験を耳にすることは新鮮でした。

私も時給560円で奥方(510円 △50円は船舶免許)と沖縄暮らしをていたことを思い出します。家賃と食費、車の維持費でいっぱいいっぱいという時期がありましたが、あの時でも何とか適当に生活していました。

それはただ健康体であったからですね。

健康でさえあれば何とかなるのでした。何事もそうですね。

病気をしたり不慮の事故があればそんな余裕は一気に崩れ去ることになります。

 

先日は史料館の長谷川氏に拙寺の「一橋様」宛礼状の控えの存在について記憶にあるか振ってみました。

私もうろ憶えでその存在のみについてでしたが、彼はしっかりその存在について把握していて「年号があったと思うが一橋でも治済の次代でしょう」と。

 

というわけで仏間に転がっているその額を引っ張り出して久し振りに眺めてみました。

何せ私はこれまでこの書面の相手が一橋治済本人であると思いこんでいましたからその指摘には少々驚かされました。

まぁその年号の存在についても記憶が飛んでいましたからかなりイイ加減なものですが。

 

以前ブログではこちらにその件記していました。

その文末に文化二年十月、1805年とありました。

その礼状中にその御礼の件「享和元ゟ文化二」とありますのでそれが享和元年(1801)から始まったことになります。

 

ということで享和元1801年の一橋様はたれか・・・を検討。

以下Wikipediaより転記。

「寛政3年(1791年)3月5日、権中納言となる。

寛政11年(1799年)1月27日、従二位権大納言に叙任される。

同年、一橋家の家督を六男斉敦へ譲って隠居し、幕府から5万石の賄料と5千両の年金を別に受ける。文政元年(1818年)6月5日、剃髪して穆翁と号す。同年12月11日、裘袋(きゅうたい)着用を勅許される。文政3年(1820年)4月21日、従一位に叙せられる。文政8年(1825年)3月7日、准大臣にのぼる。

文政10年(1827年)2月20日、77歳で死去」

 

寛政11年(1799年)に「家督を六男斉敦へ譲って隠居」とありま 

す。よって単純に見て書面の「享和元年(1801)」には「一橋様」との呼称は正式にはないだろうとのご指摘ですね。

 

一橋家三代目家督を継承した斉敦の生まれが安永9年(1780)で

没年は文化13年(1816)ですから書面の享和元年(1801)は

家督継承2年後の21歳。

その年でド田舎相良の老齢隠居の坊さんに配慮差配があったかどうか・・・その辺りの件はどうなのだろう・・・と思うところ。

家督を譲ったといっても治済は大御所の如くの権威を思うままに振った人でしたからね。

なにより書面冒頭に

「一橋様御支配之節 一位様格別之御仁恵之」

とあります。

その官位「一位」を実際に叙せられたのが文政3年(1820年)で

すから、首を傾げるところでもありますが。

まぁ、あたかも従一位は当然の如くの「支配」という風潮があってのこと、そう記したかとも思えますが。

ということでこの文面「一橋様」につづいて「一位様」の記述こそ一橋治済で間違いないかと。

ちなみに一橋斉敦は従三位どまり。

 

 

扨、画像は昨日記した柳生家老屋敷の庭。

家老職ともなれば自宅内部にこういった庭園を造り、心の余裕を楽しむことができたのでしょうね。

それがステータスと。お金持ちは庭・・・

拙寺の庭・・・坪ノ内・・・草ぼうぼうとぺんぺん草。まったくもって貧乏くさい寺です。