冷たい風が一日中吹きまくっていました。
外が晴れているだけ有難かったのですが、堂内お参りの方の口々から「寒いねぇ~」。
法要の終了後は久しぶりにお斎に。
先般閉店した根上がり松近くのお寿司と釜めしのお店の主人御一同と会食です。ちなみにそれは相良人が「寿司屋難民」と言われるようになった事案でした。
会では私の知らない「昔話」に花が咲きました。
駿遠線、小堤山トンネルの近くの線路上で乳母車のまま放置されたという方の話を私は口を開けながら・・・。
当時は子供たちに赤子の面倒を見させるなど当たり前のこと。
また線路、今でいう軌道敷内に子供が立ち入って遊ぶことも普通だったと。
赤子の世話を頼まれた子供たちがそれぞれの遊びに夢中になって何処にその乳母車を置いて来たのかを忘れたということですが、その状況を想えば「九死に一生」のイメージとなりますが、まったくそんな感じはなかったと。
何故なら当時の駿遠線の車両はゆっくり走ってスグ止まるから・・・といいます。
「新相良駅」の近くということもあり、スピードは出ないそうで、さういう時は「運転手が助けてくれる」・・・と。
ただし、子供の遊び場になってしまったことから事故もあったとのこと。
豚と衝突して脱線したとか学校に遅刻しそうなって駅に電話をすれば電車は発車を遅らせてくれたなどなど、のんびり、ゆったりの時代を懐かしく語っていました。
その「昔話」の中、一番に驚かされたのは、現在の国道150号線ができる前の事「そこいら辺りまでが波打ち際だった」と。
そして海岸は今のように石コロまみれではなく「キレイな砂浜」だったと嘆いていました。
そんな短い時間の中で一体何が起こったの? 御前崎周辺の港湾整備ではないのでしょうかね・・・
施主には昨日記したとんかつ店の閉店の件についてふれたところ、昔はよくお昼ごろに役場で会ったと仰っていました。
要は役場からのランチ注文の配達時の遭遇ですね。ということは役場の皆さんの昼食の選択肢がいよいよ消滅してしまったということで、私どもも本当に困り果てまして・・・身近な食の楽しみがどんどん無くなっていく・・・
扨、久々金沢城(尾山城)に。
旧陸軍から金沢大学、県営体育館の敷地となった時期がありその移転からが本格的な復元整備の始まりです。
地表付近の相当な開発があったわけですが、一応は国有地として管理されていたため、ありがちな民間による乱開発の手からは逃れられています。
現在のような豪勢威風堂々の城郭建築を復元していますが、私の好みとしては本丸跡周辺です。そして何よりその周辺の調査はあまり進んでいないとのこと。
城郭大系の冒頭の部分を記させていただくと・・・
「金沢城は少なくとも三つの画期をもっている。
まず、加賀一向一揆の本拠としての金沢御坊(金沢坊舎・金沢御堂)の百年間(天文十五~)があり、ついで金沢御坊崩壊後の佐久間盛政による占領期がある。この期間はわずか四年たらずであった。
さらに前田利家入府以降の本格的な近世城郭の築城期である」
その天文十五年の件、「天文日記」に「同年十月二十九日加州
金沢坊舎へ本尊木仏・開山(親鸞)御影-太幅也-御伝(親鸞絵伝)・泥仏・・・仏具」要は「寺」だったということ。
金沢大学があった頃は植物園になっていたので大きな建築物はなかったよう。よってちょっとした森。
木がお迎えしてくれます。
寺→城と異色のスタイルの金沢城。本丸跡は人影もなくベストなエリアです。
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