「国民に寄りそう」といった政治家の発言をよく耳にしますがそれはあくまでも口上でしょう。遠い存在の方々がそうは言ってもまったくピンときませんし。むしろ気持ちが悪い・・・
その言葉自体が漠然としていますが、時に我ら坊さんも悲しみに沈めるその空気(葬儀式)の中で「そうあるべき」とは言われます。
しかしやはりその通りにできたのかといえばかなり疑わしい。
私としては真宗宗旨に沿った法縁を淡々とあるがままにお勤めするだけですね。
その「寄り添う」とは「違うだろ・・・」と思ったのが今年の4月から訪問介護の基本報酬が引き下げらたこと。
今朝のNHKのニュースで扱っていましたがヘルパーさんなど人材確保がままならず、地方型の中小規模の訪問介護事業者の経営が深刻度が増して倒産件数も増えているとのこと。
ニュースではある施設の経営者の方は月給8万円。自身も高齢に付き「やめたい」との談でしたが、後継者として従業員を指名することも酷な事と。
それは施設経営側だけでなく、受ける側、高齢者、要介護者にとっても不都合なことです。
これは厚労省の施策ですがピントがボケているとしか言いようがありませんね。
実は国民を「突き放している」ことがわかっていないのかも。
それはそれは、おカネが十分にあって施設、窓口も多く集まる都会の皆さん方には介護にあぶれる心配などあるわけもなく。
まったく末端の事など分かっちゃあいないね。
昨日は独り暮らしのご門徒さんが亡くなったことを記しました。
自宅にて持病の突発出現により発見が遅れたのでしたが、そういった地区のチェック機能といえば殆どボランティアー民生委員さんの仕事になりますね。
この国は末端の悲痛や現状苦難に対して、民の力に期待しすぎの感があります。
石川の地震でもボランティアの受け入れ云々についてあれこれと囁かれていましたが救助・救援・資材・資金投入含めて本来、まず最初に国が動くべきことでしょうに。
また自治体の避難住宅の設置地選定の件はお粗末。
浸水リスクのある場所に住居を建造することなど呆れたものです。
それを口上で「寄り添った」などとは片腹痛い。
要はその時、見捨てられるということ。
災害対策は「生きること」が第一義ではありますがそのあと「見捨てられた際」をどう生きるかが大事になりますね。
そういうものだとして考えるべきです。
過度に期待すれば失望することになりましょう。そういう国なのですから。
扨、昨日は榛原の火葬場へ。
棺を納めたあと、収骨まで時間がありますので勝間田地区を黒衣に足袋と草履ながらちょろちょろと。
入り組んだ台地と谷が交錯する地です。
その山を降りて県道沿いに山からの流れのある小さな川のある南向きの斜面が大ケ谷の横穴古墳群。①②の先を少々散策。
草ぼうぼうでその横穴の存在は判明しにくい。
そこで勝間田小学校の生徒を捕まえてインタビュー。
今、私服で「声掛け」すると時に「ヤバイ人」扱いされて通報されますが僧形は案外受け入れられ易かったので安堵。
ストレートにコレ(看板を指して)知ってる?と聞けば「ごめん、わからない」と。
学校でも教えてもらってないようです。
学校の先生は地元の人とは限りませんのでそうかも知れませんが、もうちょっとばかりうまいこと管理できないものかと。
近くの方にもインタビュー。
「子供の頃にその周辺で遊んだが・・・」と中年の女性。
40基近くの横穴古墳、その様が目にできれば壮観でしょうね。
看板からすれば勝間田小学校辺りが集落跡との推測。
むしろ勝間田川に近く低地ですから昔から水害と付き合っていたのでしょうね。
墓域らしく川沿いのヒガンバナの奥がその崖(場所はこちら)。
アゲハ蝶はその花がお好きの様。
⑤画像には3個体が写りました。
猛暑ではない夏日、10月1日の勝間田の午後、青空の下に元気に鳴くツクツクボウシの声には驚かされました。
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