太平洋上の二つの熱帯低気圧の影響でしょう、雲多めでかつ少々の風に外仕事には一息つける一日でした。
午後からの屋根に上がっての作業の続き(BSアンテナの交換と本堂へのネット有線配線の撤去)の終了後はシャワーを浴びてからエアコンを効かせた部屋で昼寝の時間に。
午前は一昨日に本堂内陣北側の障子を外してざっと洗って天日干しをしていました。朝からそれに防虫防腐剤を塗布してから、浜岡方面に買い物へ。
途中、新庄を過ぎたあたりで雨がポツポツきましたので、慌てて奥方に電話。
「障子をテラス(物置)に取り込んでくれ~」とお願いをしていました。
この雨で夕方の水やりは不要かと思いきや、以後太陽が顔を出している時間が長くあったため蚊の襲来に耐えながら水撒きはしっかり行いました。
夜間各所で土砂降りがあったようですが当地にはナシ。21時ごろに静岡-富士間で不通になっていましたね。
当地にはたまには「土砂降り」もいいのですが。
扨、先日は蒲郡からのお便りの中で形原城の名がありました。
彼の地の印象は何よりも①図の如くの風光明媚。相良辺りの景色とは一味違う海の景色がありました。
地元企業の脇道が登城口②③になりますがその辺りから東側を望んだ図になります。
その先に古城稲荷なる赤い鳥居が林立していました。
いつもの如く日本城郭大系から。こちらは本編への記載があります。
形原城―稲生城
この地に最初に城を構えたのは「三河国二葉松」によれば「頼朝卿時代ニモ在城 方原下司次郎師光住之」とあり、古く鎌倉時代に下司として、この地にいたことが知られる。
その後、松平信光の四男与副(ともすけ)が額田郡内七百貫に五十貫を加えられて形原に移り、以後形原松平と称した。
しかし、この時代は定かではなく「形原記」に「長享年中五十貫之采地ヲ加倍シテ」とあることから、長享年間であろうと思われる。この頃は今川氏に属していたが今川義元亡き後は徳川氏に従い、各地を転戦して、家信の時、天正十八年(1590)から上総国五井で五千石を領し、関ケ原の合戦後の慶長六年(1601)には形原に移され、さらに元和四年(1618)には安房で一万石となった。さらに子孫は慶安二年(1649)には丹後篠山五万石に転封され、十一代長岑は亀山に移封され明治に至った。
城は往時、陸地から三河湾の海上に突出した丘陵を利用したもので、規模は比較的大きかったと推察される。だが、現在、住宅地や畑地となり、それを証する遺構はあまりない。
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