先日、10歳の男の子と少々お話しました。
お話しと言っても他愛もないことで、彼の名とその字面等が主。
そんな時間があったのは、法要中に拝読する正信偈の大判の冊子について彼が「これが欲しい~」と親たちに懇願している様を見たからです。
聞けばその経本を手に取って一緒に声を出していたとのこと。
めずらしきこと。
そして一瞬私がどうしていいかわからなくなったのはその冊子は堂内常設(御門徒さん有志が拡大コピー)のもので相当くたびれていたからです。
家族の方が「今度コピーしてあげるから」と宥めるも頑として「これが欲しい」・・・と。
皆さん呆気に取られていました。その頑なさより今の大人たちが示さなくなっているそれへの熱心さにです。
子供たちが法要に参加するシーンは何度も見てきましたが、このような件に立ちあうことは初めてのことです。
よ~く考えてみれば「正信偈」を手元に置いて「拝読」したいという主張・・・なのか・・・。
それでしたら奇特な事というか、ありがたしというべきです。
私は冊子の山の底部分にあった比較的痛みの少ないそれと、庫裏から新しいその小型の冊子を3冊持ち出して彼に手渡しました。3冊というのはその弟たちのリクエストの分を含めてということです。
子供ですからその意志は一瞬の感覚であって「飽きたらポイ」ということは往々にしてありましょう、躊躇はありましたが、身近なところに、それが一瞬放ったらかしにあったとしてもその価値はあると考えました。
しかし私は「漢字の勉強にもなるね」などと親たちにその逃げ口上を述べていましたが。
そしてその10歳の彼に名前を尋ねたワケです。
すると「たつる」と。
続けざまにどういう漢字を書くかを知りたくなって私は掌を出して「ここに・・・」と指で記してもらうことにしました。
紙と鉛筆は手元にありませんからね。
するとその字は「立」。
命名した親の気持ちがわかったような気になりますね。
その字の私のイメージといえば、真宗門徒寺特有の立姿の阿弥陀さん。当流の如来さんは「立像」というのが本ですから。
「座して安ではなく立して活」。
そして今一つ思ったというかその名の本来の意味に近いものとなるのでしょうがそれが歎異抄第一条から。
私はこれを比較的短い文章ですので葬儀式表白に添えられるものと候補に挙げています。以前は開祖の御臨末御書や和讃でした。
また蓮如さんの御文、教行信証の名は式中にありますがこれまでその「歎異抄」という語彙の登場はありませんでしたので、最近はそれを短い文章限定で挿入しようと心がけています。
因みにこれまでは「仏」の仕事として生死にかかわらない慈悲養生と念仏について記した4条を幾度か拝読していました。
まぁ解釈がカンタンとはいえない部分、相当含んでいますが。
それでは歎異抄第一条を。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて
往生をばとぐるなりと信じて
念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき
すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり
弥陀の本願には 老少 善悪のひとをえらばず
ただ信心(まことのこころ)を要とすとしるべし
そのゆゑは 罪悪深重 煩悩熾盛の衆生をたすけんがための
願にまします
しかれば本願を信ぜんには 他の善も要にあらず
念仏にまさるべき善なきゆゑに 悪をもおそるべからず
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと 云々」
この一条は「念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき」が
ポイントになりますが、その中でも「おもう」ではなく「おもい+たつ」というところ。ただのなんとなくの「おもい」に非ず その申すことに対する重さ、気合というものを感じます。
私は彼の名に、命名者の「ただなんとなく生きる」ではなく気合と重い決断力こそ・・・の人生成就の件、特に「思い立った」わけで。
画像は歎異抄冒頭と一条。
各写本がありますが「永正本」から。
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