叔父の知り合いにご先祖が御師の家だったという方がいらっしゃいます。
江戸末期までは冨士講の繁盛がありましたが、明治以降一気にそれが衰微したため、生活ができなくなって東京に出てきたよう。
その方の家には戦国時代からの文書が残っていてそれを眺めていると面白いことが記されていたと。
そもそもその方のご先祖が御師となったタイミングは武田家が滅び徳川の治世となった頃。
では御師になる以前にどのような仕事をしていたかというと武田方の間者だったとのこと。
「忍」だけに御師とは洒落ています。
修験行脚の僧形ならば各国(名目は寺社)頻繁に行き来することに違和感がありません。
そして、それだけでは知りたい情報に限界がありますので、より多様な需要ある技量を身に着けるわけですが、その家は薬草に特化して、薬を製造したそう。野山を歩けば知識さえあれば薬草の在処が蓄積していきます。
それであれば敵対勢力の中枢の館まで入り込むことができ内部情報を収集しやすかったでしょうね。人は何かしらの病に不調を抱えて悩むものです。
よって当時の医療知識のない時代はその薬売り兼祈祷による治療が期待できる者は引く手数多だったことは確かです。
拙寺に於いてもその「薬」に目を付け、主体的ではないにしろ薬を売っていました。
神仏と薬、薬草とは親和性があって説得力のようなものを発しますからね。
明治以降、代々の知性の蓄積か血脈というものか医師への道を歩む者が出たそうで、その方の孫も医師だそう。
相良には御子息が医師になったという例が数件ありますが、この城下町の衆、札付き揃いの拙寺家系以外、ご門徒さま家は特に優秀が目立ちます。
そういえばそれでも私の父の弟(次男)はかなり出来が良く、父が榛原中学(旧制)当時の小田原校長をブン殴った(父の談)せいでそちらへの入学を拒否されたそうです。
努力家で大学医学部に進学したものの、当時のお寺の事情もあって医師への道を断念させられブラジルで坊さんとなってあの国で亡くなりました。今考えれば勿体ない話でした。
尚、その校長先生は、地元の偉人として囃されることが多かったようですが、父親世代としては学徒出陣を大いに推奨し、お国の為といいながら若人を戦争に駆り立てたという歴とした罪過を主張する人も少なからずいらっしゃいました。
父はそのイケイケ思想によって「あの回天に乗せられるところだった」とクサクサ言い放っていました。
やはり昨日同様原爆投下を機に命を拾ったと。
そして「成せば成る」の教師が言いがちの努力根性論などはしばしば瓦解することを承知していました。
扨、今年の春に高原城について記しましたが富士川より東、あの山の麓に富士川支流の潤井川の手前辺りに山本勘助の生誕地なる場所がありました(場所はこちら)。
勘助に関しては三河の山本勘助の墓など、各所目にすることがありますが、こちらは堂々とその生誕を主張しています。
それに御師の推測はムリがありますが、この吉野家も歴史ある名家であることがわかります。
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