亡き芸能プロダクション代表の破廉恥の数々が表に出てあの会社は消滅とあいなったわけですが、その組織の始まりはそもそも戦後のドサクサ社会から。
叔父が話していましたが、占領軍(GHQ)下の通訳と音楽演奏(バンド)からスタートした連中といいます。
要は多大なる政の支えとメディアの忖度の中で成長し、その世界では絶大な勢いを得るようになったわけで、そういった組織の一つが解体にまで追い込まれ姿を消そうとしているのが今回の件の様。
どのような破廉恥、人権そしてあるべき親心欠落の横暴があったかなど知る由もありませんし、その組織の結末に興味はありませんが他に良く知られた「イケナイこと」の一つに代表の意に背いたとき(事務所を離れた際)これまでの仕事を失うという事案がありました。
周囲に「その者を雇用させない」よう触れを出すのですね。
昨日は「一所懸命」と少々古い記述についてさらっと記しましたがその雇用規制を世間に「触れ」て他社やメディアに圧力をかけることなどまさに武家社会で行われた「奉公構」です。
他家(他社)に於いて「再雇用させない」「その道を歩ませない」という犯罪人としての追放処遇です。
犯罪者が被害者を(犯罪者として)「かまう」など・・・最低最悪。
その他もっと軽い意味でも「かまう」は使用しますが・・・。
先般記した拙寺の「寺号改」 (1674)についてもその語がありました。
「脇ゟかまい有間敷」まぁ「傍からゴチャゴチャ言ってもダメ」といったところ。
扨、表記は上記「寺号改」 (1674)よりも更に古い寛永十二(1635)の書。「伝助譴書」とありますから懲戒の書面です。
そして伝助とは拙寺三代祐傳の俗名。
成瀬藤蔵正義と妻勒(釋尼妙意)の子になります。
「酉の年」とありますからその事件は2年前の1633年ということになりましょうか。事件とは「欠落」のことですね。
これは歴史用語「かけおち」。
農民が耕作地を放棄して逃げること。武士で言えば出奔でしょうか。
他に集団で逃亡する「逃散」がありましたがそこまで酷くない伝助の開拓あるいは託された田の小作人が逃亡し田が荒れているということを指摘されたということ。
大沢の地は正義の妻勒が家康から供養料、寺地として賜った地です。
耕作放棄地の存在を放置できないというのはどちらであっても同じこと。
おそらく「それなら(役所に年貢が入らないのだから)本楽寺の寺領として編入」ということでしょうか。
多少の深読み・・・。
譴書の体裁をとっていますが伝助(本楽寺住職)としては悪い話ではなかったはずですね。言い出しっぺは当人ですし。
その処遇について「脇ゟかまい有間敷」とありました。
相良初期天領時代の代官、遠山六左衛門。
本楽寺から大澤寺にわざわざ変更した理由の一つなのかも知れません。
また「相良 本楽寺」と「大澤寺殿」。
その時分から既に本楽寺と大澤寺の併記があるわけで。
寺号改は家康そして幕府への気遣いだった・・・それに落ち着きます。
覚
一 伝助酉之年欠落
申候ニ付其人発候
大沢新田荒候間本楽寺へ
相渡候条情を入候御発
御年貢納所可有候
於以来伝助新田ニ
脇ゟかまい有間敷
者也仍如件
寛永拾弐
亥ノ
十二月八日
遠山六左衛門
相良
本楽寺
大澤新田伝助譴書
并御代官 御墨附
大澤寺殿
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