午後から雨との予報が出たため慌てて満載の花ガラ2袋と先般からの居間付近限定「ガラス戸→木戸変更工事」で出た大量のガラスを処理場へ運びました。
できれば昨日装着した外構犬走の木材に仕上げの塗装を施したいところでしたが意外に早い降りだしとなって後手を踏んでしまいました。
ざっとバーナーで焼いてから、材の下部・裏面には適当な塗料の塗布はしていましたので、「まぁ、いいか・・・」。乾燥後にやっつける腹積もりです。
昼過ぎには息子が法衣を持参して夕刻からの通夜の打ち合わせと時間調整。
先般は息子の「駿遠、独りぼっち法要(通夜・葬儀)」デビューに際して「しっかりできるか心配」風の事を記しましたが、息子ではなく私がとんでもないミスをやらかしてしまいました。
「やはり阿弥陀さんは見ている!!」を感じさせられたワケですが
あり得ないほどのやらかしです。
法名板に事前に記していた故人の名を誤って記していました。
いやはや呆れるボンミスで、言い訳なし。
息子は通夜終了後に控室で担当者から「違ってますよ~」のご指摘を受けたようです。「穴があったら入りたい」のところだったでしょうね。
浜松に帰還する前にその事情の説明と差し替え用の法名板を取りに立ち寄ったわけですが、相当憔悴していました。
先般は「恥をかいてなんぼ」の如くを記しましたが今回は私どもが庫裏玄関で手を突いて頭を下げることになりました。
その状況、想像すればあまりにも気の毒ですが、お寺の信用も大いに失いかねないことで。
先方様にも迷惑をおかけしたこと、平に謝罪し、しゃあないしゃあない、このあとの葬儀式では一所懸命に誠意を込めて法要を修めて欲しいと言うばかり。
やはり「信用できないのは私」でした。
東京の友人「女墓場」の口癖、「バカなのぉ~ ?」が思い起こされました。
扨、昨日の細川城を右手にその道を進みます。
右側遠くに開けて矢作川の堤が目に入る長閑な場所ですが字名は仁木という地。
さぞかし古い時代から水害に悩まされていた感じを受けます。
元はといえば細川と仁木は兄弟ですね。足利義氏以来一統が三河に赴いて名乗りを挙げます。
「足利一門が吉良、今川、一色、仁木、細川」と仁木-細川の順で記したのでしたが仁木実国が兄、細川義季が弟ということで。
足利実国・義季の兄弟のことですが、兄が仁木城を拠点として仁木実国を名乗り、弟の義季は細川城を拠点として細川義季と。
隣同士、ご近所です。
細川と出自は同じながら仁木頼章・義長の兄弟は足利尊氏と戦乱期を共にして各地を転戦、頭角を現して初期の室町幕府中枢に。
権勢も得て一時は飛ぶ鳥を落さんような勢いとなって兄弟の領国(守護)は最大九カ国にも及んだそう。
今は「弟分」だった細川と比較してもその主流は歴史から姿を消してしまったこと、御存知の通り。
城郭は仁木八幡神社周辺です。
こんもりとした杜の内部には土塁らしき土盛り・・・主郭らしき平場そして井戸がありました。
⑪⑭の奥が矢作川となりますが水害の歴史の存在を思います。
土地改良の碑の「細川―仁木―岩津」の通りこの先には岩津城がありますが、松平、徳川ステップアップのお隣でもあったワケです。
碑内にあるお名前の羅列、成瀬・中根の登場には私も驚き。
遠くて近いの感じ。
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