死んで生まれ変わる? いのちは自分のものではない 

大法要も無事終わって御本山(真宗本病-東本願寺)から発せられる色々を眺めていると本願寺境内の木彫刻を紹介する彫刻マップなるものが新たに。

参拝者を飽きさせない新たな切り口で悪くないと思った次第。

拙寺も何か真似したいですね。

子供向けに「夏休み 親子で境内猪目探し」とでも題して・・・

猪目なら案外どちらのお寺でも見られるものでしょうし日頃見落とししているところ各所あるはずです。

 

扨、表記「死んで生まれ変わる」は恰も劇中作り話の中の台詞のように感じますが、今巷を賑わす芸人さん世界にいる(いた?)人の言葉です。

私はその言葉を聞いての第一印象は「お花畑のメルヘン」風の世界観あるいは新興宗教?といった違和感を。

 

ところが意外なり。

同情論擁護論はもとよりオブラートで包んだような歯切れの悪い論が蔓延しているように感じます。

それは彼が人気者でファンも多数、「下手なこと」を言って嫌われたりバッシングされたくないという感情、いわゆる日本人の大好きだった忖度の心が働くのでしょうかね。

ましてここで彼を失うことに絶大なる損失を被るところがあるようで俄かにその事実を承服するに至れないというところもあるでしょうね。

要は金づるを失うことなのですがね。

 

私はその彼の増長(おそらくそれ・・・)が「前車の覆る」を自らの戒として生かせなかったことに繋がったと断じてしまいますが

仏飯を食んで生かされている末端の宗教者の立場として一言感じた事を言わせていただくとすればその「お花畑のメルヘン」だったわけで。

「オトナのお遊び」なる表現も目にしましたがとんだお子様思考。

 

要はその「死んで生まれ変わる」という台詞さえなければ黙殺レベルの事案だったのですが、当流に於いてその言葉を傍らに置いて「自死」に至るなどさすがに完全NGで、まさに怒りにも似た感情がこみ上げてくるわけです。

 

私は彼の演劇について以前の大河ドラマ以外はまったく知ることはありませんが、比較的若い世代の人たちに人気がある人といいます。

その人がどういった内容か知りませんが「無茶苦茶に都合の悪い」を感じるバッシングらしき評価(週刊誌)を受けて自死の選択をしたとのこと。

その自ら死を選ぶということとその死後に「生まれ変わる」の甘っちょろい感覚、それを私はメルヘンと評したわけですが、その行為を丸ごと受け入れてヨシと信じてしまう同様のメルヘン思考の者たちはいるかも知れません。

ちょいと挫折して「心が痛い苦しい」を感じた時、一旦リセットして「生まれ変わろう」などいう「命の軽さ」のメッセージとなるに他ありません。

 

まがりなりにも坊主。私としては冗談じゃあないとしか言いようがありません。

年端もいかない子供が、心神耗弱状態に陥っている方々が、その有名人の「選択肢」を真似ることがあるとすればそれこそが最大の罪悪となりましょう。

 

もっと楽しく有難く生きられないものか・・・。

「有難い」ではなくて「あたりまえ」の生き方(増長)をしばしば拝見させていただいていますがね。

後につづく「車」はこれを戒めとすべきですね。

 

画像①②はとある真宗寺院の掲示板と堂内にかかる阿弥陀仏についての記述。

二つとも当流で著名な方ですがこういう場合①の高史明氏の著述「生きることの意味」や『高史明の言葉ーいのちは自分のものではない』を思います。

 

順風満帆でほいほいと温かく見守られて自由にわがままに成長していくと・・・自らの挫折を承認できない「私が王様」となるのかも。

初めて遭遇した大きな障壁にぶつかって死を選ぶ様にしか見えません。

 

もっと辛く苦しい壁に跳ね返され、谷底に落ちこんで、それでいて立ち直って這い上がった人たちがたくさんいることを私は知っています。