浄土門こそ~道綽 相良新御城印 小和田氏来訪予定

朝から酷いというか「酷すぎる」の印象の雨。

そんな中、お向いの墓地から読経が。もちろんご門徒さんの家ではありません。

よく見ると墓石にはテントが張られいました。

天気予報から施主が事前にそれを手配していたということでしょうが、墓への読経に拘ったということはご納骨の日どりがあったということでしょう。

 

拙寺の方といえばたまたま遠方からの参列が多いということで午後1時からの法事がありました。

その時間帯には何とかなって欲しいとは思うものの当地への移動中にあの雨ではたまったものではありませんね。

何を成すにも辛い一日を予感しましたがその雨は1時前にはあがって「こりゃあ、しめた!!」のドヤ顔。

法要後のお話の中でこの時間帯の選択は最良でした・・・等々その嬉しさを言葉に表し、「さぁ墓参へ」というタイミングで再び降雨が。

私が余計な事を言ったから「天気なんてそんなもの 気に掛けるな」を阿弥陀さんが伝えてくれたのだろうと謝罪しました。

 

その後施主から「墓参はナシで・・・」との提案を受けましたので私は「それじゃあ・・・」ということで尊前を墓前に代えて今一つご焼香をしていただきました。

 

以前は納骨のタイミングで土砂降りになるということがありましたが私は「次の機縁(その時は盂蘭盆会法要)で納骨は如何?」とそれまで本尊須弥壇にお預かりしたことがあります。

すべてタイミングと臨機。49日だからといって納骨にはこだわりませんね。まぁ先方次第ですが。

 

扨、昨日のお話の冒頭は

「前に生まれん者は後を導き 後に生まれん者は前を訪え」

から。

こちらは親鸞さんが善知識として正信偈等に記した七高僧のうちの一人道綽が著した「安楽集」に記された言葉で親鸞さんの著書「教行信証」に引用したことで、当流では度々耳にする言葉になっています。

ポイントとしては「前に」を「さきに」、「後に」を「のちに」「者」を「ひと」と通常の読み方とは替えることと特筆すべきは「訪え」を「とぶらえ」と読むところ。

 

その「訪う」から「弔う」へイメージアップさせて葬儀式冒頭でしばしばその語は当流僧侶から耳にすることが多いかも知れません。

 

私がその語を入れたのは先日の「前車の覆るは 後車の戒」そして「同じ轍を踏む」へ引っ張り、それこそが煩悩主体に動く無反省な私と結びつつ、しかし阿弥陀さんは「それでいいよ・・・」とあちらで(中央須弥壇を指して)言ってくださっているが、だからいいといってそれでイイというわけではなく、時に立ち止まって「先ずは反省」。

他人様(前車)の件もまぁ、ありますが、かつて「私がやらかした」ことの色々や故人の想いについて「聞いていく」(訪う)時間を持つことの大切さについてお話しさせていただきました。

 

道綽は七高僧のNo.4 浄土三部経の「観無量寿経」についての講釈を重ねた人で何より仏教を聖道門と浄土門という流れに分けて、末法の世こそ浄土門(修行研鑽ではなくお念仏)であると説きました。

その思想こそが以後浄土系の善知識に繋がりゆきて我らが宗祖親鸞聖人に。

そのお念仏の教え~阿弥陀さんから「それでOKだよぉ 大丈夫だよぉ」に対する私どものお礼の言葉~が私どもまで繋がっているということ。

 

画像①は岡崎妙源寺の七高僧図。

七高僧の軸は真宗寺院において必ずといっていいくらい余間に架かる物ですが、こちらは構図が拙寺のもの③とは一味違います。まず時代の古さを感じますね。

拙寺の七高僧には尊名が記されていますがそちらにはありません。

三段目の向かって左側が道綽、右側が善導というのが後世の一般的構図ですが、古いものの例にそれが左右逆になっている例があるそうで確定できていないとのこと。

古いだ新しいだと言ってますが拙寺の七高僧③の裏書④には「一如」(1649-1700)とありますから江戸期とはいえ1600年代のもの。その図の感じからすれば①は鎌倉あたりまでさかのぼるような・・・ちなみに願主「圓受」は拙寺五代目。

 

②は西本願寺所蔵の親鸞筆道綽伝。冒頭で釋道綽の俗姓が衛氏ということがわかります。

⑤は牧之原市社会教育課の松下氏より。

「牧之原市御城印政策委員会」なるものチラシ紹介をいただきました。

 

本年11月に小和田哲男先生をお招きすることが決まったそうでそれに合わせてこちらにも力を入れていくとのこと。

史料館の長谷川氏は「将棋」(田沼関りの町おこし)の方で忙しく動いていますが松下氏も負けじと駆け回っているようです。