生のみが我等にあらず 死もまた我等なり 細川順行寺

昨日、法要が終了した際、予想通り「寒かったねぇ~」の声が遠くから聞こえてきました。

天気予報は「晴れ」でしたが、当地は時折小雨交じりで大ハズレ。一昨日はニュースにて「熱中症」の声も飛び交っていましたから皆さんも大いに油断されたかと。

 

一応は事前に奥方に「どうする~」と打診していましたが「4月下旬にストーブを出してどうする・・・」と逆に窘められました。

尤もストーブは既にテープでぐるぐる巻きにしてテラスに仕舞っていますからね。

季節的には暑くもなく寒くもなくの快適な時間なのですが、法事という非日常の時間は少々のことでもちょっとした苦痛に拍車がかかるのかもしれません。そんなものでしょう。

 

扨、昨日記した信光明寺、その直前に訪れたのは以前からお参りしたかった真宗大谷派の順行寺(場所はこちら)でした。

その理由はいつか別の機会に記すとして、また興味をそそられるのはこちらのお寺の代々は先日記した豊田大沼の等順寺同様に「本多」を名のり寺紋が「立葵」だということ。

三河一向一揆の際、本多忠勝は真宗へのこだわりを捨てて、以後宗旨としては家康に同調したのでしたが、そもそもの本多の流れとして真宗を貫き、聞法道場として寺を建て門徒を率いつつ「家」を繋いた者たちも少なからずあったというところです。

 

そのお寺にはアポなしで失礼至極・・・とは思いましたが住職と面談することができました。

恐縮にも庫裏まで通していただき、しばしお時間をとっていただいたことは有難き事。

住職のお名は私の父とまったく同じであることが自坊に帰ってから判明しその奇遇を喜んだのでしたが、その二文字が二人の息子さんに一つづつ分かち、命名されていることがまたわかりました。

 

お二人とも既に法務に携わっているとのことで大きな「仕合わせ」を思いましたが、実は住職の同い年の奥方様は数年前に逝去されているのでした。

そのお話を聞きながら、住職の手で接待を受けた夏の味(麦茶)は、まったくもって味わい深いものがありました。

 

庫裏にはお内仏と和装姿の遺影があり、そちらの古そうな木仏本尊に向かって数珠を取り出してからあらためてご挨拶させていただいた次第。

ちなみに庫裏のお内仏本尊が軸ではなく木仏というのは私の勝手な思いですが「古い伝来」を感じます。尚、拙寺はお軸です。

 

どこか寂し気だったのは私の知りたい「お寺の歴史」についてはその奥さんの方が詳しくて住職は断片的に留まるとのこと。

また住職は先代が早くに亡くなられて住職就任が「25歳だった」といいますので想像しがたい相当の苦難を思いました。

そして住職歴が約半世紀。

その話される内容には重みがあります。

法務の進行も私とは格段の違い。

反省し考えさせられるところ多々ありました。

 

宗祖御絵伝四幅の修復が終わって出来上がったその出来栄えを拝見させていただきましたが、その表装を依頼した方に、亡き奥様が手掛けていた寺伝を纏めた書面を修復に出しているとのこと。

「夏以降にはできているからまた遊びに来て・・・」と。

図々しくもその言葉に甘えて、「ハイまた楽しみにして拝見させていただきます・・・」と再び押しかけることを断言してお寺を後にしました。

 

門前に掲げられていた清沢満之の言葉が特に印象的でした。

「生のみが我等にあらず 死もまた我等なり」

(→大谷大学「読むページ」)