三木城主松平信孝 浄珠院での出会いは麻婆豆腐から

ポカポカ陽気もあって境内は墓参で賑やか。

おかげで花ガラの袋が夕刻には満杯になっていました。

その2袋満杯が私の処理場へ向かう目安となっていて、ついでの作業「笹葉切り」について提案するも、休日につき処理場は休みというのが判明。

そのあとはグズつく天気が続く予報が出ていますので対応を考えることにしましょう。

 

扨、先日ブログにて上和田城址の土屋長吉重治の碑について記しました。

目の前の通行量の激しい道路(県道48号)を渡った、その斜向かいに台湾料理の店があります。

水曜を除く平日にワンコイン料理、要は500円(ライス別)で酢豚や麻婆豆腐が食べられる店ですが、以前からチャレンジしようと思っては踏ん切りがつかないでいました。ある時、お昼時にそちらに立ち寄る機会を得ました。

食後、その裏にお寺があることに気づき食後の散策ということで

立ち寄ってみました。

浄土宗のお寺で本堂正面に葵の御紋がその関係をアピールしているように感じました。

 

ほうっ・・・と呟きながら墓域に。すると私の存じている方のお墓がありました。

事前の調査も何もせず、ふらっと立ち寄ったお寺の墓地での出会い、それは感動的でした。

麻婆豆腐に吸引されたのがきっかけでしたが、美味しい+感激で言うことなし。

阿弥陀さんが結び付けてくれたのでしょうね。

こういうことがあるからより楽しい(場所はこちら)。

 

宝篋印塔の主は三ツ木城主松平信孝。あのタマゴ屋さんがある城址でした。

信孝は家康の父廣忠の時代の人ですから、家康のひと世代前の混沌のうえに混沌を重ねた時。

松平宗家は今川-織田の間にあって、家臣団にも同族松平の間でも信用というものが置けませんでした。

その信孝には各説あって真実はわかりませんが、最終的には岡崎を攻めて討死しますが、どうしても彼は「嵌められた」・・・ような雰囲気がしてなりません。

他の廣忠家臣団と折り合いが悪かったといいますからね。

 

しかし、三河後風土記正説大全(之七)には「蔵人信孝敵と成」と表し「松平宗家を奪い取るべしとの心底なれば・・・」などと悪者の評価。

少々そのあたりの件、記しましょう。

廣忠流浪については今川義元の助力があって岡崎に戻ることができたのですが、新年の駿府への挨拶がまだということで廣忠は蔵人信孝を呼び寄せて「いかゞすべしや」(どうする・・・)となったところ、その「心底の企み」から絶好の機会と「某御名代として駿州へ下向すべきよし」(それなら私が代わりに駿府へ)と申し出たと。

その心底とは「今川家へしたしみ、たよりて義元へへつらひ本意を達すべし」とあります。

 

そこに「安倍大蔵大輔・酒井雅楽介・石川安芸守等の老臣は此の節を(信孝を排除するチャンスと)幸ひと思ひけん。即時に人数を催ふし三木へ押つめ信孝の居館にのこり居たる輩をことごとく追い出して其知行をうばひとるによって、蔵人信孝が留守居のものども追々駿州に逃行」。

 

信孝は上和田に居た松平三左衛門忠倫(ただとも)に与して岡崎に背き、また織田信秀に通じ加勢を受けて三木城を再び取り返します。

何しろ無茶苦茶な混乱期にあったということです。

あのタマゴ屋さん付近(ギロ)での約500年前の争乱、想像などできないほど長閑でした。

 

何が真実かわかりませんが、私は勢力関係拮抗の中でその存在がただ「不要である」と断ぜられただけだと思いますね。

会社組織内でもそういった人事異動の件、よく聞きます。

出張不在中に居場所がなくなっている・・・などよく以前は聞いたものです。