此世はわずか五十年なり 永き後世こそ一大事 土呂殿

息子の住まいの引っ越しは数日前に完了しましたが、この2月中旬の退去は家屋のクリーニングなど不動産管理者と次期入居者の都合によるものもあるよう。

まぁ1カ月程度の契約延長オプションを嫌ったということもあるようですが。

 

それでいてこれまでお世話になっているお寺の仕事は3月いっぱいということでそれまでの間は義母の家に転がり込んでの通勤ということになります。

それなら最初からそうしておけば余計な出費は無かったはずなのですが・・・

もっとも彼の家は先方のお寺から徒歩1分の距離にありましたから相当ラクな場所でした。

彼の車がエンジンルームから発煙したことは先日記しましたが「次の休みまで放置」とのことで聞けばその後は「症状が出ていない」よう。

度胸があるというか相当のバカ、イチかバチか、は当方の家系の特性でしょうか。

「行き当たりばったり」は良くいえば「如来におまかせ」のOKOK・・・なのですが、無計画・無配慮・他者迷惑の躰はイケませんね。

尚、通勤はレンタバイク(約2万円/月)だとのこと。

 

当初はお寺の車を借りられることになっていたようですが、彼のあとがまで入った女性(彼より二回りくらい年上)の独り立ちのために使用するということでダメになったそう。

その年上の後輩さんはペーパードライバーでこの職において初めて独りで運転することになったそうでした。

息子もその人を助手席に座ってもらい同行したことがあったようです。

彼が言うには「アクセルもブレーキもわからない」くらいで「オレは絶対にその助手席には乗らない」と呆れ果てながらその宣言をしていました。

 

私が、さも女性だから運転がヘタクソを示唆する言いぐさに「それはイカン 言葉を謹むべき」とその言を一蹴して「もうちっとばかりうまくやってあげなさい」と注進したのは先日の事。

それほど「運転が下手クソ」など経験上お会いしたことがありませんからね。

 

彼が引っ越しで2連休した二日目の日は、その女性がお寺の車を使って初めて独りだけの遠乗り練習の日だったそう。

するとお寺からメールがあって「事故を起こした」とのことでした。

坂道でオートマのバックにシフトを入れてハンドルを切ったまま暴走、道路わきの塀に激突して横転したとのこと。

それだけ派手な事故で本人もとよりケガ人が居ないということも奇跡ですが息子は「だから・・・」と。「オレが助手席に乗っていなくてよかった・・・」。すべてにおいて南無阿弥陀仏と。

 

昨日その車の破損状況の画像が送られて来ましたが、フレームまで歪んでしまって廃車になるようです。

余計な事、大好きな彼は、修理工場の車のカメラから記録媒体(SDカード)を取り出してきて「今日はみんなで上映会をしたよ」。

その女性も同座しての解説付きだったようですが、「私ってもう車の運転はさせてもらえないのですか・・・」と。

真宗門徒の坊さんはやはりノー天気。

息子の「人見る目と感想評価」についてまんざらデタラメではないことをまた気づかされました。

お寺も大変です。

人を育てるということはリスクも伴うということです。

当初息子も「リスク」。遡れば私も色々なところで「リスク」と感じられたことでしょうが。

 

扨、画像は三河一向一揆の中心的お寺。三河三ケ寺(佐々木上宮寺、針崎勝鬘寺、野寺本証寺)に加えてもう一つの拠点で今はお西のお寺になります。

当初は勝鬘寺の南、土呂(岡崎市福岡)にあったものの戦乱で焼き落ちての家康の処遇から一時断絶。

現在は美合町に移っています(場所はこちら)。

しかしかつての地を示唆する山号「土呂殿」が光っています。

 

その後の明春尼の働きで寺地を確保しての再興(天正十一年)でした。

寺地は明治維新からマッカーサーの施策によって衰微したのはどちらのお寺でも同様のことでしょう。

そして昭和43年に火災によって本堂が焼失してしまったことは何とも惜しいことでした。

 

表記「此世はわずか五十年なり 永き後世こそ一大事なり」は

門徒衆加勢の徳川家臣団分裂のその主たる思想。

現世の主従関係よりも「後世」・・・阿弥陀世界を重んじるということ。

 

以下「三河後風土記 正説大全」。

三河三ケ寺側に付いた武士たちのリストアップをしてみました。 

 

 

 

三河後風土記 正説大全 より  

 

針崎正満寺(勝鬘寺)

 

蜂屋半之允 久世三四郎 久世平四郎 浪切孫七郎 

近藤新三郎 筧助太夫 本多喜蔵 畔柳孫左衛門 畔柳金十郎

川澄文助 浅井善次郎 浅井小吉 浅井五郎作 土屋長吉

渡辺玄蕃 渡辺半蔵 渡辺八衛門 渡辺八郎五郎 

渡辺八郎三郎 渡辺源蔵 渡辺住右衛門 渡辺平三郎 

渡辺源五左衛門 渡辺半三郎 小林平次郎 小林平六 

浅岡新十郎 浅岡新八郎 安藤治右衛門 加藤善助 

加藤次郎左衛門 加藤源次郎 加藤伝次郎 加藤源蔵 

加藤又三郎 加藤源太 佐野小太夫 成瀬新兵衛 坂部又六 坂部庄兵衛 坂部囚獄之助(ひとやのすけ) 坂部桐之助 

坂部造酒之助 坂部又兵衛 平岩善十郎 渡辺左門

其外八十余人

 

上宮寺

大橋伝十郎 大橋佐馬介 石川半三郎 石川源左衛門

石川善五右衛門 石川新九郎 石川右衛門八 石川新七郎

石川文十郎 石川十郎左衛門 石川太郎八 佐橋甚兵衛

佐橋甚五郎 佐橋久米之助 大見彦六 佐橋辰之助 

江原孫七郎 江原文助 本多甚次郎 本多甚四郎 

本多九郎三郎 本多八太郎 佐野与八郎 内藤弥十郎

山本才蔵 山本小次郎 山本四平 松原半助 小野弥平治

村居(井)源四郎 畔柳治郎兵衛 畔柳彦助 成瀬新蔵 

岩成半七郎 三浦平三郎 浅見主水介 浅見金七郎 

加藤五郎左衛門 平井甚五郎 馬場小平太 松平源四郎

野沢四郎次郎 吉田与左衛門 

其外七十余人

 

本称寺(本證寺)

倉地平左衛門 吉田善太夫 吉田弥太夫 吉田彦太郎 

山谷甚右衛門 安藤金助 鳥居又右衛門 山田八蔵 

安藤三郎左衛門 矢田作十郎 加藤無手右衛門 

戸田三郎左衛門 

 

其外浪人 

大津半右衛門 犬塚甚左衛門 牧吉吉蔵以下百十六人

 

右の外に二百余人都合三百十余人