服部はナシ 坪原放心 毘沙門堂の仏✖2 西部公民館

世の中、雪だ雪だと大騒ぎ。

民放ではつるつるの路面でタイヤがロックしてずるずる滑る様子を実況中継していました。

どちらの社も撮影クルーが降雪地に繰り出して「結構に通行の邪魔・・・」を思わせる場面がありました。

もっとやることあるのでは・・・

 

雪国の人が見たら失笑するところでしょう。

事故もたくさん・・・そちら(失笑)はマスコミの報道の姿勢についてです。

注意喚起という意なのでしょうが、それだけ庶民アホが多いということでしょうかね。FFの車の後部でチェーンを用意している方が見えました。どちらのタイヤに装着したかは知りませんが。

 

息子の相良来訪の件、何とか説得を重ねて中止にさせたことを

昨日記しましたが東京在住の「女墓場」氏は急きょ在宅ワークになったとのこと。

実際に彼女が自宅で仕事に励んだかどうかは別としてそういった配慮こそ経営者、管理者として必要なところですね。

 

そして昨夕入ったニュースには田舎住まいの私にとって大きな驚きがありました。

当方奥方がスマホ片手に駆け込んできました。

本通り旧郵便局の植田氏(その方は相良に住まうことはありませんでしたが)が日銀総裁に指名されるかもしれない・・・と(まだ正式決定ではありませんが)。

十数年前からその噂はありましたが・・・まさかの思いです。

 

横浜の「奥の墓道」氏からは牧之原市は最近イイ話がなかったからそうだとすれば「慶事である」とのことですが、あのお仕事は大変なうえに前任者の修正そして反省、総括の役回りとしてのウェイトがかかります。

これからいろいろな方面からどうこうと云われる立場ですから・・・。

難しい舵取りとなりましょうが是非に気張って励んでいただければと思います。

 

NHKよる7時のニュースで真っ先に報じられていて以前の顔写真が映り出されていました。何となく御家親類の加藤剛に似ているような・・・

 

扨、鵜殿氏より駿河人質母子の奪還の駒(鵜殿長照の息子2名)をゲットしたその仕事に関しての記述は「三河後風土記 正説大全」にも触れられています。違う記述です。

この書は端折りすぎ、あきらかな間違いも散見されますが・・・

 

松井左近忠次がその戦を仕切っている様は先日鵜殿長照を討取った件で記しましたがやはりその名が登場します。

また服部半蔵の名はナシ。

 

家康が松井左近を呼び寄せて「西郷の城(上之郷城また西郡城とも)に鵜殿長門守長持(長照の誤りか)籠りたれば汝馳向ひ追崩し候へ」と。

松井は相当に思案したとありますが「坪原放心」(同書デジタルコレクション)の名が出てきます。

「坪原放心とて忍びの上手ありて御当家へ召し出されん事願ひける~」です。

そして「何卒西郷の城中へしのび入りて鵜殿を誅し申されよ、さすればよろしく言上して賞禄を申あたふべし」

すると放心は喜んでこたえるに「某一人立身を心がけ仕損じてはいかがなれば、甲賀の津野図書・同太郎左衛門とて忍びの上手あれば渠(かれ)らを~」と「津野其の外十八人西郷の城中に忍び入る」となります。

甲賀の忍びというところは大抵の記述と合致。

 

場内酒宴のあとの寝所に休む鵜殿を取り押さえるの記述は思いのほかリアルです。

十五夜の月で白昼の如くの夜、その騒ぎに驚いて鵜殿は「おのれ、何者なるや、必定盗賊なるべし。当番のものども出合(であえ)」と呼ばわりながら抜き打ちに切りつけるところに放心は夜具にて太刀をくるくるとからみて引き組たり。」

その当番の者どもが大勢かけ来るところに放心の息子三郎が父が込み伏せている鵜殿を「刺し殺しけり・・・」でした。

彼らが大勢に包囲された頃合いに松井左近忠次はじめ家康本体が攻めかかって場内は大混乱に至ったというところ。

 

もしかしてそれが服部半蔵にすり替わったとしてもドラマですから・・・。

 

画像は「門前」よりさらに北側の丘(正行院の北)にあった毘沙門堂の仏たち。毘沙門天と阿弥陀如来です。

現在は西部公民館に安置されています。

ケースの中に納められて尚且つ鏡が背後に。撮影には難儀しますね。

⑧⑨⑩は毘沙門堂のあった辺り。

⑩はそちらに立って南側を見た所。

 

公民館は火曜~土曜日の開館で日月はお休み。9時~16時が開館時間になります。また12時~13時はお昼休みですからご注意。