大高城脱出の思案 大草城址 幸田正楽寺は大谷派

厳冬期において家庭内の当たり前の如く使用している機器の故障等の不測の事態に遭遇すること、痛く困惑させられます。

家中、今は「当たり前」となった数多の便利グッズの恩恵を得ているのですが昨日お聞きした「困った~」の件はガス給湯器の故障。

業者を依頼するも修理用のパーツが不足していて入手できないといい修理が何時になるかわからないとの無下。

 

私の家でもかつてその給湯器の故障がありました。

その際は夏場であったため最悪、行水も可です。2~3度は「子生まれ温泉」のお世話になりましたが、現状のコロナ禍においてそれだけは真っ平御免蒙りたいところ。

当家では「ホース風呂」というその水浴びはやはりストレスが溜まりますし他所での入浴も時間を喰いますのでその便利品、給湯器の故障は特に困りものですね。

 

当家のそれも数年前に「そろそろ交換時」と指摘されていますのでその話を聞いて震え上がったのでした。

その方は週2回ほど親戚の風呂に浸かって解消するそうですが、私など「毎日入る」習慣が付いてしまっている身としてはいかにも耐えられない苦しみになります。

 

焼き芋用のドラム缶が劣化しつつありますので境内に煉瓦のかまどを作ってその上に新調ドラム缶を乗せる・・・などの粋狂を思いますが、時間かかりすぎ、後処理大変で絶対に無理ですね。

1度はやってみたいお遊びですが。

 

「お湯が出ない」ただそれだけで「耐えられない苦しみ」とは如何にも軟弱な身とは思いますが、現代人としては蛇口から「お湯が出る」など当たり前のことですからね。

これも「雨山の御恩」の一つでした。

 

扨(さて)~この文字は最近目を通す機会が増えた「三河後風土記 正説大全」(またはこちら)頻出の「次の話」に移動することを表す語~、「三河後風土記正説大全」は江戸期に記されたもので当然ながら家康(元康)の見苦しい振る舞い、感情の動きなど微塵も感じさせるような記述はありません。

 

大髙城退散の件など、さすが「ないまぜ」作り話の現代風ドラマの作中(前回ドラマ)を思いますが、そもそものあの時の大問題は撤退どうのよりもまずは義元憤死と駿河方撤収の報の真偽でした。動きたくとも即座に動けないという心理。

 

後の信長本能寺の件と同様、今云う相手方の広めたフェイクニュースかも知れないということですね。

三方ヶ原での武田軍の浜松城素通りの報も真に受けて追走し待ち伏せに合って惨敗したのはその件わかっていたとしても動かない事が「信長への背信」に繋がるからだったのかも。

 

本当の相手の動き、情報を得ることが肝心なので時間をかけるのはその真偽の吟味。

大髙城で家康が狼狽したなどの記述は一切ありません。

あの時もし義元討死の報がフェイクであってそれを信じ切って慌てて城を逃げ出ていれば、保身狼狽の家康と後ろ指を指されるどころか義元に叱責され地位も危うくなるところ。

 

それほど情報というものの真偽の判定が大事な時代でした。

「浅井六之助」が報じる義元軍敗走の件からの吟味と決断についてその大高城内記述に割かれていました。

 

特にその報を取り次いだ家臣たち(酒井雅楽介正親 石川安芸守清兼 酒井将監忠尚 酒井左衛門尉忠次)が各忍びの者を出して「実況のよし」を吟味。

一同の意見を聞いた際の家康の言葉は以下でした。

 

「扨々狂変なり。但し何ものが申したるや 慥かなる証拠あるや」また注進を聞いて

「御笑ひありて『国家の政道をまかせておく汝らが申条とも覚へず、卒忽の事を申者かな かようのせつは種々さまざまの雑説多くあるべきことなり。

自然敵がたより間者をもって惣大将義元討死などと虚節をいわする事もあるべし 其うへ真偽をも尋ねきわめずして周章狼狽(あわてうろたえ)て退き もしや其事偽りにて義元存命においては第一申開きもなくまた諸人の舌頭にかかり嘲りをうけ

憶病未練の汚名かふむり生涯武門のの便りになるべからず 

よって当城に屯して義元の安否実況を聞定め 然るうえは元康が存亡をも究むべし もしまた実事にて信長当城に寄来らば花々敷一軍して討死し義元の教養に報ずべし 

然れば少しもいたむことなし』」・・・です。

周章狼狽と憶病未練こそ武門の恥辱という思想真髄の時代、当然といえば当然。

ドラマで弱き大将の成長を描きたいという気持ちはわかりますがそれは今風の発想でしょう。

 

そののち本多作左衛門重次の諫言を聞き撤退となったという運び。その件「三河後風土記正説大全」の記す大高退去前の家康の状況でした。どちらがイメージできるかといえば私はこちらの方。

ドラマはドラマの割り切り必要ですが少々やりすぎ。

ため息まじり。

 

尚、退去後はその件告げた「浅井六之助」の案内で岡崎に戻ることができたというのが三河後風土記正説大全」の記すところです。

岡崎への退路、ドラマでは大草の松平昌久が突然敵役として登場してきましたが上記書物ではそれが信長方の落ち武者狩り勢力であってその浅井のとりなしで難なく解消というものでした。 

 

画像は久々幸田になります。

真宗大谷派の正楽寺(場所はこちら)です。

この寺が大草城といわれる場所。

どちらを見回しても城址のイメージは沸いてきませんでしたが・・・。

本堂にお邪魔して合掌。

 

例によって城郭大系。やはり「その他の城郭」にありました。

「額田郡幸田町大字大草 松平氏三河制覇以前、三河守護代西郷氏居城。西郷氏はのち大草松平と称す。城址は宅地や畑地。」