こちらは阿知波一統 雨山合戦戦死者の墓20基

叔母の近況を伝える叔母作成?といわれる画像付きの年賀の挨拶状が届きました。

コロナに罹ったせいでしょう症状は出ずとも食事のコントロールがあったせいか少々痩せ気味。

ただしいたって元気そうでした。どちらにせよ今月末には定期検診に同行しなくてはなりまませんので様子窺いはできますが・・・

 

ショックだったのは毎度の事。

今回は「クリスマスのイベント」とやらの画像集を見た事。

例のサンタクロースの赤い装束を着せられて白い付け髭の様。

私はそれを見て呆れ果て「コレだから(そのとき・・・)あの手の施設入所などはイヤなのだ」と奥方にゴネました。

写真のポーズとはいえ南蛮文化の倣いを道化の如く強いられて、幼稚園の遊戯の如くの歌会にお絵描きなど御免こうむりたい。

勘弁、ご容赦を・・・と頼み込みました。

「どこか山城に行倒れて猪とカラスにキレイにしてもらいたい・・・」と野晒し希望をポロリと吐くも例によって「誰が回収するんじゃ・・・ボケ」。

 

私のそのとき・・・痴ほうが進みあるいは歩行ができなくなった「そのとき」なのでしょうが、思考回路がぶっ壊れてたとすればたとえ外来からのおバカ宗教イベントであったとしても「オレは仏教徒だ」のプライドは消え失せているのでしょうから。

それならさっさとおさらば、退場した方がめでたしめでたし。

 

先日お聞きした話。

骨折をして入院、何とかリハビリを重ねて無事退院復活。

積極的、前向きのスタンスは天晴れ。

筋力を付けるためでしょう活発に動こうと過ごしていたところ再び転倒していっぺんに二カ所の骨折。

急速に衰えて寝たきりになってしまったとのこと。

 

転倒と骨折は如何に苦痛を増幅し、その後の健常に影響をもたらすか。

何が具合悪いか・・・筋肉を落としてしまうこと。

日々筋量の維持を心がけ、回復のために鍛錬(リハビリ)を続けること。それが「生きること」だけは「投げない」ということ

(門徒の生き方「投げ捨てて」~改悔文-がいけもん)。

齢を重ねたらベットに寝ている時間をできるだけ減らしたいものです。

という私は一日中、庫裏でのらくら。

そんな中、「骨折して回復が予想できなければ・・・もはや投げたくもなる・・・」は当然だろうと思ったところです。

 

さて、雨山の集落はおそらく人口は70人あるかないかと思われます。あちらのダムから約2㎞のダム新設に伴う道路の周辺の家々ですが、当然とはいえば当然、川の近くは田んぼ、その他は山ですからね。よって産業といえば主として林業。

最近はシイタケを手掛けるようになった(昨日の力氏)そうですが如何にも地味。まぁ自然と城址と墓があれば私は文句ありませんが。

 

その墓ですがやはり以前見落としていた墓たちに気づかされました。

道路脇にあって道路上から見ることができますが、前回はまったく気づきませんでした。

それもそのはず五輪塔の列のバックの石垣と完全に同化しています。

左脇の小さな掲示板が無ければまず気づくことはできません。その墓は地元では阿知波家一統の墓といわれますが、藪の中の菅沼兄弟のそれらとは大違い。明るい壇上にありました。

④画像はその段の前からダム方向の図ですがその兄弟の墓は④の黄色い→といずれもごく近い場所にあります。

兄弟の墓のブログの画像④にブルーの掲示板がありますが、まさにその向かいになります。

 

ダム用道路の改修工事によってこちらに集められたものでしょうが、実はその雨山川と道路の間には⑤の石塔台座が2基あるとのことですが、伐採材が積み重ねられていて未確認。

画像は昨日の力氏からのもの。

 

⑥は新編岡崎市氏史額田史料編1より。

「東アチワ」はじめとして雨森の戦いの主戦地「シャウシ(しょうし)渕そして「寺ケ入 仏供田(ぶつくでん)  ワセ田  勝負田」等々興味をそそる小字名が見られます。

雨山城跡に阿弥陀堂跡とありましたが痕跡はなし。

✖印は砦の痕跡調査個所とのこと。

 

⑦⑧は墓近くの小堂。

両隅の五輪塔、何故にして貴方たちは覆いの中に・・・

 

最後の二つが昨日の紅梅の様子。

先日の蝋梅につづいて少々早いような。