なんとか「やっつけた感」ある大晦日。
昨日以上に風もなく穏やかな一日でした。
もたもたしていればまた同じように「やっつけ」準備となるのでしょうが、次にやっつけられるのは私では・・・とも思います。
漫然と「年越し」となりますが、それはホント有難いこと。
「あることがむずかしい」こと嚙み締めて手を合わせて感謝しなくてはならないものです。
その日は超繁忙の中ですが、たくさんの方からご挨拶を戴きます。
「最近の日常」についてすべての方たちから聞くことはできませんが、たまたま時間があっての会話は神妙な件ばかりというのが年の最終日の事情なのでしょうか。
「実はお爺さんが・・・」「お婆さんが・・・」「親戚が・・・」「私が・・・」中には「息子が、娘が」と主語が変わります。
我ら人間の道は難所だらけで一切が無常と、ネガティブなところばかりを日々吹聴していますが、だからと言って捨てたものではありません。
これまでまずまずの人生を歩んできたからと思量します。
ただ寂しいことですが決められた「その時」が確実に近づいて今、迫っているということでしょう。
淡々と受け入れる他はないのでしょうが・・・。
ただ「それまで」を力強く生きたいものですが「既に食べ物を受け付けなくなった」という末期の症状を聞かされた時は特にショック大なるものがありました。
私は本年で住職を継承して18年になりますが、どちらの皆さんもこれまで世話になった知った顔ばかり。
「次は私」は確実に思うところです。
「老少のへだてなし」 (白骨)・・・
①は親鸞さんの前、待ちぼうけの福ちゃん。鐘の音が怖い・・・
②テントと風よけシートで囲んだの急造の受付カウンター。
中は暖かく昼過ぎには酒場に早変わり。
こういった境内酒宴の状況も確実に変わっていて、「もう飲まない」「やめた」という方が増えました。
以前は「たしなむ程度」などの弁もありましたが、今はハッキリ、強い意志というものが見られます。齢による自身変化について適応しようとする姿。
奥さんからのキツイお達しがあるような。
④は「なにやってるの!!」とばかりに奥さんの急襲を受けた図か・・・
「今日の朝は家族に送ってもらった」という檀家さんから、片づけのあと、家まで送る旨伝えたところ、「タクシーで帰るから結構」と。
それでは申し訳ないとキーを取りに戻ろうとすると「実は寄らなくてはならない場所がある」と強く辞退されました。
これ以上言うのは野暮と思い、ニヤリとして引き下がりました。
その方は「花屋に行かなくてはならない」と申しておりました。
鐘撞大会は無事終了。今のところはコレは修正点ナシ。
駐車場警備員配置はベストな選択でした。
今回、鐘を撞かれた方は名簿だけで225名。
相当数、無記名もあるということで235回くらい・・・。
みなさんご苦労様でした。
そしておつきあいいただきありがとうございました。
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