心を亡くす 渡行脚の締めは門徒寺にお参り 安養寺

忙しいは「心を亡くす」と記します。

ここのところやらなければならないことが一気に訪れて、昨日はせわしく朝から動きまわっていましたが、ブログのことなど放ったらかしでした。

というかその存在を失念していましたね。

 

拙ブログは日記の如く日々更新。私の消息のようなものでしょうが夕刻に「どうしたの?」なるメールを頂戴していたこと、ようやく気付いたのでした。

そういえば世の中コロナ八波で死者増加。静岡から親類のコロナ罹患の報もありました。

 

「師走」といえばおこがましいものがありますが、この時期になって「私の時間」などはまったくなし。まぁ、それを望むのは贅沢というものですね。

何とか時間をみつけて境内雑務はこなしてきましたが無理なものは無理。もう諦めました。

あとはすべて、やっつけ、思いつき対応で行きましょう。

黙っていればあっという間、すぺてが過ぎていきますからね。

 

そうやってやっつけ後回しの急場しのぎの積み重ねで人生終焉を迎えることは、だいたい知ったところですが。

 

さて、渡地区のぶらつきの中、当然の如く立ち寄ったのは当流の阿弥陀さんのお寺、安養寺。

私の好み、葬儀表白の締めに拝読する御開祖の「御臨末の御書」にも登場する語がそのお寺の名です。

 

ブログでも記していると思いますが

「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも

和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ

一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし

その一人は親鸞なり

我なくも法は尽きまじ和歌の浦

            あおくさ人のあらんかぎりは」

あの「弘長二歳」親鸞さんの遺書ということで・・・

 

私がお邪魔した時は本堂は改修中の様でした。

以前の拙寺の場合は鉄のポールの支えを入れていましたがこれは古い本堂の宿命です。

小屋裏で屋根を支える桔木(はねぎ)や虹梁が朽ちたり劣化すると屋根が落ち込んできます。

屋根を捲っての大工事となりますからカンタンにはいかないところ。

拙寺の場合は大棟が崩れての補修工事の際に修理していただきました(場所はこちら)。