「東本願寺Walker」は観光客向け ダウンロードで 

 

掲示板用にコンパネ(合板)を求めに材木売り場を歩き、その値段を見て即退散。違う方法(昨日)にてそれを実現させたのでしたが、それが最後⑤の画像。

手製掲示板はボードではなく角材の枠のみになりました。

 

④が東本願寺HP内の紹介ページのカットです。

冊子原本は以前各寺院に本山より(1冊ずつ)送付されたものですが、一見したところそのタイトルも構図も色見もすべて、まるで各「旅行案内誌」の様。

そこに「驚愕の攻め」を感じてニヤリとさせられましたね。

 

コレはよろしき方向に傾きつつあると思い、檀家さん各家にこの手のものは配布すべきとその意図を読み解くと、なんとまさに京都を訪れる観光客用のガイドとのことで門信徒、非門信徒の関係はなしとのこと。

 

ご門徒さんならその手の内容は「全て承知の事」と断じたのでしょうか、そこまで予算を考えていないということもあったのでしょうが、ご門徒配布用ではありませんでした。

要はフリーペーパーで東本願寺境内各所、駅などの公共施設等の観光客の目に触れる場に置かれるとのこと。

 

私はヒジョーに疑問(檀家さん用でナイ)に思いつつもその冊子をバラしてページを組みなおしてその手製掲示板に貼り付けたのでした。

しかしまた、もし父親が生きていたらまた違う意味で驚き、疑問を感じたでしょうね。

 

未だ当流の年配の住職の頭の中にある言葉に「(門徒寺は)観光寺ではナイ」がありますが、特に父は強い語でそれを言い放っていました。時にあきらかに観光で訪れたであろう人の質問に対してけんもほろろの様があったことを思い出します。

 

寺の「聞法道場」としての場の強調なのでしょうが、現代においてそればかりにスジを通すこと拘れば、念仏(易行)を通して得られるご開祖の教示に取っ付きにくさ堅苦しさを感じさせてしまいかねません。

導入部分を自ら拒絶してしまうのと同じ。

聞法といいながら逆に「受け入れられない」は如何にも二言アリの様。

 

他流寺院の門前に見かける結界石(禁葷酒入門)について、ブログで各紹介していますが、それと同じようなことなのがその語彙なのです。

法を聞く耳のナイ(念仏が唱えられない)者は境内に入るな・・・という趣旨とも思えますね。

そのスタンスで寺の門を「閉じて」しまうことはいかにもマイナスです。

他流の結界石はさりげなく立っているだけですから

後者の方は尚タチが悪い。

 

よって父なきこのお寺に関しては、基本「どなたでもどうぞ」という「敷居を低く」の態にして有縁無縁を問わず、すべてを「御縁」として受け入れようと心がけています。

 

今回の本山のこの冊子発行のウラに「若手の新しい発想が」とか「新風吹き込んでくれてありがとう」と、大いに賞賛したところです。

お寺の奥座敷に鎮座する古ぼけた頭の諸先輩方にはサラッと記す程度でよろしい・・・といった判断だったのでしょうね。

地方にいてPC嫌いというか、それを触ったことも無い皆さんへの告知はもはや「棚の上に置いておく」というところでしょう。

 

「本冊子は、京都駅周辺の店舗や宿泊施設を訪れた方に、東本願寺や渉成園にも立ち寄っていただけるよう、境内のみどころや渉成園のおすすめ撮影ポイントなどを掲載しています」

とありました。まさに観光特化の冊子と言われても・・・です。

ドンドンやれ・・・応援します。

 

よろしかったらダウンロードして眺めてみてください(東本願寺サイトこちら)。

 

昨日は報恩講コロナバージョンの準備と寺楽市の設営が総代、世話人の手で行われました。

最近になく風が出てきたため、テント張は当日朝ということになりました。

予報は晴れ。

うまいこといきそうですが・・・

 

拙寺本堂の御開祖御絵伝は奥の余間に掛ける(報恩講に行う)のではなく、皆さんがしっかり眺めやすい前面に掛けることにしています。

余間では何が何だかサッパリ・・・ですからね。