昨晩はNスぺ「新型コロナ病棟 いのちを見つめた900日」を視聴しました。
奇跡に奇跡が重なって(エクモを装着したまま出産・・・)次々に発生する合併症を一つ一つ克服して退院に到達できた人、コロナが治っても後遺症で1年近く外来に通ってその苦しみを乗り越えた高校生。
それを聞くと奇跡は何処にでも転がっているのだ・・・、医学と生きる力を信じさえすればコロナは克服できる・・・と思いがちになりますがその裏には感染防止用の遺体処置袋に入って「退院」しなくてはならなかった多くの人たちがいたのでした。
それにしても看護師と医師そして病院、医療従事者たちの(たすけるための)「手」を差しのべること惜しまない姿には感激。
世の中、色々な仕事がありますが、やはり頭が下がります。
「たすけたい」の本意・・・その真実しかないからですね。
ところが「賢善精進の相」のエライ人たちまたぞろの政治社会ときたら辟易させられます。それに相反して真に清々しい。
最近は毎度毎度の「真摯に」と「適切に」の語彙が耳につきますね。ヤダヤダ~私はそれを「絶対に使わない」と自身念押ししている次第。誤魔化しの逃げ口上。
さて、昨日記した古本宿城の西側境界を想像すれば鉢地川沿いになりますが、東側の①を背にして国道1号線に並行してある歩道を西(岡崎方向)に歩を進めるとその鉢地川に架かる橋の手前に川筋や畑地に降りることができる階段とその下方木々の中に墓塔の姿が見えました。③画像(グーグールマップより拝借)。
④は下りてスグの背後からの図です。
左側墓碑の建碑は昭和40年代とのことですが、右側に建つ墓石はさも古げです。
ちなみに左側墓石に記された四文字「俱会一處」は阿弥陀経から。当流はじめ浄土系の墓碑によく見られます。
拙寺境内の墓碑にもそれが多く掲げられていますが親鸞聖人裏側にある合葬墓の名「一処一處」はそちらからでした。
正面の新しい五輪塔には六字の名号、そしてその古そうな墓塔は、層塔を意識して後世積まれたものでしょうが、ぱっと見、同等サイズの宝篋印塔2基と五輪塔1基のMIX、パーツ合成のよう。
まぁそれはともかく墓碑には松平権兵衛重弘(昨日)の名が。
こちらの歴史は深くまた未知なる部分多し。
「面白い」と思ったのが、墓の建碑者の名「冨田」さんでした。
「冨田」といえば旗本柴田家の本宿代官職の家系。
柴田家より古い家ですがその冨田家のどなたかが本宿古城の城主松平権兵衛重弘一統を弔っていたということでしょうか。
(場所はこちら)
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