昨晩は台風15号の雨域に入って当地は酷い雨。
全国ニュースで牧之原の名がまたも出ていましたが周辺各地「1時間に120mmの雨量」と報じられていました。
萩間川が「危険水域を超えた」の件もありました。
途中、本堂の雨戸を閉めようと試みましたが、「もはや無理」と諦めました。
一瞬間、一度だけ「ビュー」という突風がありましたが・・・。
やはり竜巻注意情報も・・・
夜が明けたらまた確認に。
例のカルト教団ご一同からの選挙応援のおかげか、晴れて当選されたといわれる、あのゲーノー人様でしたが、そのカルトの巣窟?へ立候補の挨拶に出向いた際に一同から漫画の「巨人の星」の曲の替え歌で盛り上げていただいたと報じられていました。
ご当人は痛く喜んでいたとのこと。
「替え歌」といえば色々な曲に勝手に思い思いの詩をつけるなど、よくある事ですが、その手の曲で私が一番に思うのは「ちょうちょう」なる唱歌です。
幼稚園で歌ったり(歌わされたり)ピアノのお稽古で最初にそれを弾いたりしたものです。
「ソ ミ ミ ファ レ レ ド レ ミ ファ ソ ソ ソ ~」
蝶々 蝶々 菜の葉に止れ ~
先日は日本初の幼稚園長の関信三について記しましたがまさにその楽曲はその時代(1876年頃)に日本に紹介されたといいます。
勿論原曲の歌詞とは全く違うものでいわゆる替え歌の類。
ただし日本人にはその原曲の歌詞は知りませんのでそうとはわからないのですが、ドイツ人の耳の中には当たり前の如くその蝶々とは違う歌詞のメロディーが展開するのでした。
世界的にその曲は拡散し、各国でオリジナルの歌詞が付けられたりしているようですが。
そのオリジナルと言われるドイツの曲に付けられたタイトルが
「幼いハンス」。
少々深読みしすぎか普通に歌詞を眺めても怖い感じがしないでもなし。
ここでも人の性というか「無常」がプレスされるわけです。
「子供の成長」を単純に受け取ればイイだけの話ですが、やはり欧米人もその変化という「無常」にその最たる「死」というものまで示唆的に感じ取ったのだろう・・・などとも思えます。
まず「ハンスちゃん」が旅に出るというところから。
歌詞の一番で幼いハンスをその母親が見送り、二番で放浪の旅に。よってハンスは日焼けした大人の「ハンス」へと変わり、
三番でもっと大きくなったハンスが故郷に戻ると、あまりの変わり様にだれにもハンスだと気づいてもらえなかったが、その母親は一目でハンスと分かった」というものです。
設定としてそのように幼い子と親が離れ離れになるシチュエーションは現代人にとって想像しがたいところですが、「別れと悲しみ」と「私自身そのものの変化」は人生につきものであって避けがたいこと。しかし「母親の愛情」は常に深く成長した子供を何時でも迎え入れてくれるものだ」ということを幼少期の子供達へ聞かせようとした内容でしょうか。
そして幼い子供といえば「かわいい」ものですが成長すればその「かわいさ」は消えていくのは当たり前とはいうものの、「ちょっと怖いかも・・・」と思うのがその「深読み」から。
旅とは「戦場」であり大人のハンスとは「戦士・兵隊」への変化そして「ハンス」であると皆がわからなかったその帰郷とは「ハンスの死」(または心身を害する後遺症)であるとも思えるのでした。
その深読みのきっかけになったのはある戦争映画に使用されてそれがあまりにもインパクトがある映画だったからです。
以前と言えば戦争映画の上映の頻度は今よりかなり高く、私もアメリカ、ハリウッド製の映画ばかりを鑑賞したものです。
その戦争映画といえばまずは主役がアメリカで敵役はドイツか日本です。
欧州(稀に北アフリカ)が主戦場ならばドイツ、大平洋ならば日本といった具合ですが、私の子供の頃と言えば戦争映画の戦場が欧州系が多いということで敵役はドイツという時代でした。
すると学生の頃になってアメリカの監督(サム・ペキンパー)がアメリカ資本ではないドイツ側からの視点の映画を作りました。
原題が 「Cross of Iron (鉄十字)」ドイツ軍の勲章のことです。
主役、主人公の名「シュタイナー」でも映画の名として通じました。
ところが日本版になるとそのタイトルが「戦争のはらわた」に変じています。
誰が決めたか如何にもオカルトチックで「軽い」印象を受けましたが、ただ映画の期待値はかなり高いものがありました。
この映画はかつて奥の墓道氏と観賞したのでしたが、その監督といえば当時アクション映画界を牽引する特筆される監督。
スローモーション映像の斬新さは誰もが圧倒されたものです。
ドイツ目線の映画を撮ったのは彼がドイツ移民だったこともあるでしょうし、このハンスの童謡を凄惨な戦争映画に使用したというセンスとその意図をまた凄いと感じたものです。
映画は戦争そのものの残虐さ愚かさは勿論、人間の心の汚らしさというものを描こうとしています。
特にシュタイナーの上官が「Cross of Iron (鉄十字勲章)」を得ることへの執着と名誉欲、仕舞には利己的振る舞いに及ぶ姿、そして「こんなものが欲しいのか?」なるシュタイナーの台詞も、痛烈でとても心に残った映画でした。
尚、その戦場とは東部戦線(昨日)であり、いわゆるウクライナ、クリミア半島が舞台です。
プーチンが反ナチズムなる虚言を持ち出すのは過去のヒトラーとの闘いでの勝利を今のウクライナ侵攻を重ねその正当性をこじつけているわけですね。
当時は今とは真逆、連合国はこぞってソ連側につき武器等の補給を支援していました。
歴史は繰り返す、そして歴史というものの皮肉をまた思います。
よってあの映画を観れば、童謡の「ちょうちょう」のイメージは吹き飛んでしまいますね。
勿論「幼いハンス」の方をのみ連想します。
それもその戦場への「旅」に出た幼き者たちは、塹壕の中で成長し、泥と硝煙の中、真っ黒になりながら戦って、傷を負い障害を抱えあるいは戦死し変わり果てた姿で郷里に帰って母と再会・・・というシーンが思い浮かぶわけです。
何より、歎異抄の「さるべき業縁~」の件(やはり昨日)ですが、それこそ「どれもこれも私のことだ」の再認識があるわけで。
それが殺したら殺されるのは勿論の戦争をまた思います。
不仕合わせの連鎖、そのきっかけは抑えたい。
それを避けるための国民の大切なスタンスは、独裁者を出す環境をつくらない事でしょう。
ヒトラーやスターリンの類。過去の世界人類の汚点として捉えるだけでなく未来にわたってその手の野心家の登場のリスクを常に警戒しなくてはなりません。
人とは名誉と権威にしがみつき、それに付随して富の蓄積をしていきたいと思うものなのですから。
一度ゲットした地位を手離したくないということから、法を改めるなどして繰り返しトップに居続けることを所望したがるものです。
この国でもその類を以前目撃しました。
平和と安定世界の維持はその醜態シグナルに早く気づき、ストップをかけられるかどうかにかかっています。
それを見誤ると「同じこと」を繰り返すというのが人間の歴史でした。
巧みな情報操作の中、真実を見続けることの難度は上がっていますが、アンテナを伸ばし耳を傾け見張り続けていかなくてはなりません。
画像は歎異抄13章から。
有名な①「ひと千人ころして」に②「さるべき業縁」の件。
特に
「当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外にしめして、内には虚仮をいだけるものか」は私の好みのところです。
「賢善精進の相を外にしめしている」輩とは今風に言えば東京オリンピックの贈収賄で逮捕された連中他いろいろの高貴風紳士面の人たちと重ねてしまいます。
先日行われたの統一教会御仁の記者会見なども、その出で立ち物言いなど一見したところ「賢善精進の相」でしょうかね。
態様はまさに虚仮でしたが・・・。
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