安休寺の宝篋印塔 水没地のマラリア発生増を見て

週末から週明けまで天候不順の予報があります。

台風14号が列島を縦断するようですね。

そのため、ゴミ類を集めて地頭方の処理場へ。

墓地を一回りして、朽ちた花ガラを回収しましたが、例によって蚊の大群に徹底的にイヤというほどヤラれました。

「発狂しそう」と記しても過言ではないくらいの敗北感。

堆積した落葉の回収についてはそれを理由に早々に諦めて退散した次第です。

一度完全装備に殺虫剤を振り回してあ奴らの退治のためだけに動くべきでしょうね。

「人類最大の敵」とも言われる「蚊」を私は甘く見ているのでしょうね。頭の中では「ヤバい」といいながら毎度毎度同じようにヤラれまくる。やはり底抜けのアホなのでしょう。

 

蚊の絶妙生息環境となったのは雨続きの夏の終わりということだけでなく墓地西側の笹の刈りこみをヤメたこと。

私が毎年その笹を刈機でバッサリやり続け除草剤まで撒いて「管理」をしているつもりになっていたのでしたが、そのために土塁の崩壊が進んで上部の樹木の足場(根)の脆さを招いてしまいました。

法面上の雑草・雑木を取り去ることは命取りになりかねないということに気づき、現状「笹伸び放題」に戻したということです。

寺の大木倒壊のニュースは度々耳にしていますからね。

そのために墓地境内の空気の流れを留め、笹自体が蚊の生息地となってしまったのでしょう。

 

パキスタンの件、そちらの今年の夏は無茶苦茶な洪水続きで国土の1/3が水に浸かったというニュースがありました。

住居の消失のうえ、蚊の発生により18万人(昨日ニュース)がマラリアに罹ったといいます。

「痒い」どころでは済みませんからね。

 

以前NHKのドキュメントで戦時中の戦線拡大と並行して創設された「防疫給水部」なる部隊にスポットをあてマラリア、デング熱、破傷風などの対応に人体実験により多くの人命を犠牲にしていたという番組を視聴したことを思い出します。

南方に行って無事に帰還した元兵士なら誰でも知っているその病気の恐ろしさですが蚊にもたくさんの種類があることを知りました。

 

当時マラリアの感染発症は戦争以上に日米両国とも悩ませた病気でしたが、当初日本はインドネシア産原料で作る薬「キニーネ」を独占したおかげで、その病気の対抗策としては有利に進めていたといいます。

しかし戦況悪化とともに薬は不足。バタバタとその病気に罹って戦争どころではなくにっていくワケです。

その薬の取り合いから殺し合いになったこと、食料飲料の補給もままならない中マラリアに罹った兵士のところに衛生兵がやってきて「気合が足りない!!」と言いながら「ブン殴ったら、死んじゃった」という証言は衝撃を受けました。

 

「戦争栄養失調症」なる語も耳にしましたがそれら耐性体力が減衰した兵士にマラリア蚊の襲来は酷だったでしょうね。

そのせいで「兵力が1/4になった」(参謀)というくらいでした。

戦闘以上に蚊の襲来はダメージとなったのでした。

 

色々と感じさせられる番組でしたが、やはり「スゴイな!」と思わされたのはアメリカの対応です。

各界総力を集めてマラリアの特効薬「クロロキン」を早々に作りあげ医療体制を逆転させてしまったこと。

それによってマラリアでの疲弊を考えずに対日本軍一本で戦えたのでした。

 

その病気の歴史としては源氏物語にも登場するくらい「古い」ものであって研究機会はいくらでもあったはずですし、これから日本人が大挙して赴く地に蔓延し罹患するおそれがある病への対応として後手後手になったことを見ても国の姿勢はいつも「そんなもの・・・」と諦めるしかほかは無いのでしょうね。

いつもがそうなのですから。

 

日本は今、新型コロナでもアメリカ産の製剤の後塵を拝するという結果になっていますが、ずっと昔からそういった姿勢は変わっていないのす。

以前は他国占領と戦線拡大オンリー、今は経済と景気を旗印に。

要は国民の健康と命は二の次という思想が蔓延っているということ。

日本社会はつい最近まで「体調の具合が悪い・・・」など言うだけで「気合」だの「根性」だのを振りかざして怒鳴りつける輩が居たものです。

「病は気から・・・」病気になった人にそれが言えますかね。

先日は自分だけ特効薬を処方されて「大したことない」の風を標ぼうするソーリ殿の姿を見てもそう感じました。

 

アメリカ、中国などこれからの未知なるウィルスの登場に対するための医療、バイオ技術に注力し、国としての企業や研究技術の囲い込みを進めていくようです。

日本という国は直接カネに繋がらない医療技術の学術研究への支援は僅かという傾向がありますね。

永遠に後手を踏んでいく姿、アメリカの顔を伺いながらクスリを分けてもらおうという根性が透けて見えます。

 

さて、昨日は三河一色の安休寺の本堂裏の五輪塔二基について記しましたがそれ以上に興味深い石塔が本堂脇の堂(納骨堂か・・・)の脇の顕彰碑の建つ場所にあります。

 

私はてっきりこの二つの宝篋印塔がそれぞれ吉良満義と一色有義の石塔かと思ったほどです。

ところがそれらのものといえば昨日記した五輪塔と決まっています。

 

宝篋印塔と五輪塔、そしてそのサイズから言ってどう考えても私の思った「その逆」というのが正論かとは思ったところですがやはり寺伝と違う私の発想は誤りでしょう。

 

しかし完全ではありませんがこの宝篋印塔にどのような歴史があるのか、知りたいものです。