干拓地旧菱池の東側 日昇の地 廣福寺の古仏

以前、都内のある場所で「牧之原市ってどこですか?」なる質問を受けて、クサクサしながら「御前崎の手前・・・」と説明した覚えがあります。そして「田舎です」でしたね。

その説明もかなりアバウトなもので殆ど「まぁ知ったこっちゃあない」(聞くんじゃなかった・・・)といったところ、相手の顔からうかがい知れたものでした。

 

そこへ来てあの幼稚園の事案。

昨日も各局競い合ってその画面に「牧之原市」のテロップ入りで連呼していました。

奥方は「一躍全国区に躍り出たものだ・・・」と皮肉っていましたが、あの記者会見を見て「なんともいやはや・・・」の感。

私の気持ちとしては「あの件触れるのはよそう」とは思っていたものの、あの会見がすべてご当地限定、こちらならではの人の性質(タチ)などと思われるのも癪ですからね。

 

それぞれの担当(人間)のミスの連鎖の結果でしたが、関係者でもなく普段間違いを積み重ねている私がそれをどうこうと非難することなどはできません。

しかし敢えて記させていただければ自身管理責任者(最高責任者)でかつ今回の最大失策ストーリーの主人公としての会見の謝罪と内容説明ではなかったような気がしてなりません。

奥方は溜息をつきながら「牧之原市民すべてが針の筵。こっちまでバッシングを受けそうだ・・・」と。

 

一番に思ったこと。

トークと内容についてはともかくとしてまず自身の席の隣に幼稚園に直接関係のない弁護士2名を侍らすなど特に首を傾げるところでした。

自分の弁では間に合いそうもないので「タノム」とこの期に及んでの保身が垣間見れましたし、頭数を合わせた・・・とも。

記者会見とはそういうものであるとの錯覚の為せるところか。

故人の名前を間違えて発するころなども凍り付きましたね。

 

車内高温の中、その存在を忘れ去られ亡くなった女の子の水筒の中身はカラだったといいます。

3歳の女の子の苦悶もそうですが、両親の受けたその現実、厳しい結末に対する悔しさ、痛み、悲しみそして怒りが伝わってきます。

 

さて、昨日は幸田の菱池について記しました。

明治になって埋め立てられる前までは野場西城の東に広がる湖だったわけですが野場から望めばまさに日が昇る方向です。

 

当然の如くその菱池の干拓地を歩いても歴史的遺構というものは皆無です。

私が幸田方面に向かう場合国道一号、本宿から岡崎寄りの山中(地名)から左折、のんびりと山越えで向かうことがありますが、幸田の平地に下るにあたってかつてはその西側に湖が見えていたというようなシチュエーション。

そこが大草という地になります。

平地に下りて幸田の六栗明善寺方向に向かうにはやはり国道1号美会から南下する道に当たりますのでそちらを左折します。

そちらには大谷派の廣福寺がありますのでさらっと立ち寄ってお参りしました(場所はこちら)。

 

山号が「大照山」で当地の「日の出」を思います。

丁度、野場西城の真東あたりになるでしょうか。

本堂裏に廻りこんで御当家墓地にお参りすると、その脇に宝篋印塔と五輪塔の残欠が。

同様の石材ベースが三基並ぶ図ですが隅飾りからの上、相輪部分は欠損。

宝篋印塔が代々に渡って製作されていたと解釈すると土豪・国人クラス、ある程度の資金に恵まれた家というものを推測します。

 

真宗寺院でこのタイプの石塔があるということは、少なくとも拙寺よりも創建が古いということがわかりますし、天台あたりからの宗旨替えの歴史なども考えられます(詳細は不明です)。

地域差は各あるものの、当流では江戸期以降に五輪塔、宝篋印塔の製作はありません。その新設建碑に関してはやんわりと「それはムリ~」とお断りしますが・・・

敢えてそれを記せば基本、真言系の標がその始まりだからですね。歴史上、(資産家、武家階層の)墓と言えばそれ・・・というイメージが広がった時代もありました。

 

やはり本堂の裏には鉄製の突っかえ棒がありました。

拙寺本堂の裏には直下に墓石が並んでいますからそれを敷設するのはムリです。残念。